「受難の主日」(枝の主日)(B年) 説教
2012年4月1日・加藤 英雄師

 

  ロバに乗ってイエスはエルサレムに入ります。イエスの姿を見た人々は喜びにあふれます。神の力を持った人がエルサレムに入って行かれる。多くの人たちが服を道に敷きました。なつめやしの枝を持って迎えに出ました、叫び続けました。「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。」(マルコ11・11)あるいは、主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。(ルカ19・38)主の名によって来られる方が王となる。イエスが今、エルサレムでイスラエルの王となる。弟子たちはイエスが王となってエルサレムに入城を喜びました。人々も喜びました。イエスにはローマを倒すような力はない。イエスの共同体は武装グループではない。むしろ、イエスは恵みの方です。神様の優しさを、神様の安心を、神様の慰めを与えて下さる方です。しかし、イエスには神様がついておられる。神様の力を持っておられる。神様は万軍の主。どんな敵もかなわない。世界を征服しているローマ軍であっても神様の軍隊にはかなわない。イエスが王となる。そして弟子たちは期待しながら考えています。ダビデの国が成立する。わたしたちは王であるイエスによって国を治める大臣に選ばれる。

イエスは神様でありながら人となられた。 わたしは天の父から、神様を愛するため、人を愛するため心と体を与えられました。舌を与えられました。耳を与えられました。この体全体が神様からのものです。神様のために働くのです。そして、心は神様から注がれた愛にあふれています。神様の御心を行う力にあふれています。

今、エルサレムで神の栄光を現す時を迎えています。縛られた姿でエルサレム、ピラトの前にいます。ピラトが問います。お前はユダヤ人の王なのか。イエスは答えます。あなたは、あなたの思いによって、わたしをそのように決めるのですか。
イエスは、もしピラトに心があるならば語りたいのです。わたしはイスラエルの王として来た。イスラエル:神の国。神様を求める人たち、神様への道を歩む者、神様を喜び、神様を信じる者、神様に従う者たちの国。すべての人をこの世の力から解放するため、すべての人が支え合う喜びを知るため、この世を律する律法を変えるため、この世に神の御心が行われるために、わたしはこの世に来たのです。人々が神様のものとなるために語っているのです。わたしの言葉が神様からのものであることを知ってもらうために病を癒し、悪霊を追い出しているのです。それ以上に死んだ人を蘇生したのです。

イエスはエルサレムでローマに反逆するものとして極刑である十字架につけられました。イエスが示そうと思う神さまの栄光はこの世の王ではなかったのです。この世で万軍の力を率いて神様の力を示すのではなかったのです。神様への愛のために自分を無にしたのです。愛は与えることです。神様にすべてを与えます。命さえ与えます。神様への従順のうちに、神様の栄光を現されたのです。神様を愛します。
わたしへの愛の献げものとなりなさい。 イエスは神様への愛を示された。愛の道を歩かれたのです。 イエスの栄光を祝います。枝の主日。受難の主日です。

 



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