「年間第11主日」(B年) 説教
  2012年6月17日・加藤 英雄師


レバノンの杉(香柏)は美しい木です。 主は言われます。香柏の柔らかい若枝を高い山、エルサレムに移し植える。香柏がエルサレムに移し植えられると枝を伸ばし、実をつける。エルサレムの実をつけるのです。香柏にはあらゆる鳥がそのふもとに宿り、枝の陰に住むようになる。その時、世の中に生き生きとして茂っている木が枯れ、世に捨てられた枯れた木を茂らせる。主であるわたしがこれを語り、実行する。
力のある人は幸いです。神様の思いの内に生き、神様の道具となって働きます。神の国への道を歩んでいる。
イエスは言われます。神の国は神様の命の世界です。神様の生きる喜びに入ることです。喜び、楽しみの種がある。隣人に喜んでもらいたい、楽しんでもらいたい種がある。また、隣人のために蒔き、育てたい種がある。人は種を蒔くのです。種が芽生え、成長する、人は待ちます。そしてついに実が結ばれる。実を刈り取る。そのすべての出来事は自分の出来事です。自分が種を蒔く出来事がある、自分が実を刈り取る出来事がある。出来事の中に入って行くのです。そこから神の国は始まっているのです。それがどうしてそうなるのか、人は知りません。聖霊が働いておられる。聖霊が包んでおられる。父の御心、子の姿が聖霊によって世の中で動いている。父と子、聖霊が働いているところ、それが神の国です。  また、イエスは言われます。神の国はからし種の出来事でたとえられる。からし種は本当に小さい粒、1,2ミリしかない黒い粒です。からし種のように見える物を、弱い者、小さい者をあなたは見ていないのではないですか。イエスは言われます。どんな種よりも小さいからし種を蒔くと、成長して、どんな野菜よりも大きくなる。葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。  自分はからし種。能力があるわけではない。強い者ではない。むしろ何も出来ない者。何かの事について働きかけられれば、ついて行くだけです。そんなことを言っていると、パウロに叱られてしまいます。あなたは体を住いとしているのですか。体を住いとしているならば主から離れている。主の内に住むのです。  「小さい」は神様から与えられた特別な重荷ではないでしょうか。そのために苦労する。そのことを深く、真剣に考える、安心を祈る。小さいから、小さいという嫌な束縛から、解放されようと、その束縛から脱出するのです。救いとは神様と共にいることです。神様の平安の中にいる。「小さい」束縛から離れた、今、神様の安心の内にいる。神の国にいる。
神の国は与えられるものではありません。たどり着くものです。
神の国は自分からの脱出ではないでしょうか。世の中に縛られている。煩いに縛られている。人間関係に縛られている。

「老人ホームからの脱出の話」……安全が神様からの平安ではない。「看護婦さんのアフリカへの脱出の話」……人と出会うことが看護。  平安である喜び。金環食を見た。  

土はひとりでに実を結ばせる。神の国の平安に入れますように。


   


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