「四旬節第1主日」(C年) 説教
2013年2月17日・加藤 英雄師

 

  イスラエルは40年の荒れ野の旅を終え、ヨルダン川東岸についた。40年の荒れ野の旅の生活を思い起こします。荒れ野の生活で神様を知った。本当に知った。神様によって生きる、神様によってすべての事が動いている、すべてのものは神様のうちに生きる、すべての出来事が神様によって起きることを知ったのです。そして今目の前に見ているこの地が神様から与えられて土地。神様の祝福のうちにこの土地に生きる。そして感謝をささげます。神様から与えられた初物、恵みの賜物をひれ伏して感謝します。

イエスはヨルダン川で洗礼を受けられました。この時からイエスは神様を語る者、神様の姿、思い、いつくしみ、愛を告げ知らせるのです。しかし、神様はイエスを荒れ野に導かれました荒れ野―命のないところを引き回されました。そして、40日間、悪魔から誘惑を受けられたのでした。 悪魔はイエスの問います。神はあなたに何を求めているのか。神が王なら、王のうちにいるあなたは、王によって自分の求める者を十分与えられるのではないか。すべてのものを支配する神のもとにいるのなら、すべてのものを自分の思い通りに使えるのではないか。イエスは答えられます。神様の思いは、人が神様のうちに生きる、与えられた神様の命を喜ぶことです。自分の思いを捨てる、自分の欲求から離れるのです。自分が自分から離れた時、自分が自分を捨てた時、神様があなたの中に入り、あなたを満たすのです。自分が自分でありたいと思う心を捨てるのです。体は大切です。心と一緒に働くからです。体は自らを大切にし、自らを求める、体の欲求によって自らを求めます。しかし、体だけ生きるのではないのです。
神様は苦しみを与えられる。その苦しみを味わいなさいと言われるのです。その苦しみが何を求めているかを見つめなさい。悪魔、あなたは体に楽なものを求めよという。わたアたちは神の名によって楽なものを求めようとしない。悪魔、あなたは人を誘惑している。体の平安によって、体の欲求によって、心に満足を与えている。体を欲求の自由に任せなさいと求める。生きる、体が生きることを求めていると主張する。  神様はわたしの前に「命の喜び」と「死の災い」を置かれます。(申命記30・15)命の喜びは厳しい道を求めます。自分の命を豊かにするのではなく、隣人が生きるために働くのです。隣人のために重荷を背負って歩くのです。その苦労が喜びとなる。隣人の喜びが喜びとなる。これこそ、神様の「いのち」の喜びです。死の災いは表面きらびかやです。体の喜びに溢れている。体の刺激に酔っている。それは自分の楽しみ、自分の喜びです。神様の「いのち」は消えている。わたしたちの前に生と死、祝福と呪いが置かれているのです。自分に注がれている神様の救いの力、愛の思いを、その人は自分の体の欲求によって邪魔しているのです。  空腹のときのパンへの欲求、見える権力への志向、人の力を超える力を求めてしまう思い、神様の名のもとに力を求めてしまう、このような出来事はすべてこの世の事ではありませか。神様を知ったわたしたちは、神様から示された世界を思いめぐらして行きます。荒れ野で与えられた悪魔の誘惑を、試練として受け止め、神様を見つめながら歩んで行きます。



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