四旬節第3主日」(C年) 説教
2013年3月3日・加藤 英雄師

 

 今日わたしたちは神様の名が知らされます。モーセが神様に名を問いました。神様は仰せになりました。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」
わたしは今まで、これが神様の名前だと思っていました。入門講座でも、神様の名は「わたしはある」です。出エジプト記3章14節に書かれています。と教えていました。神様ご自身が仰ったのですから、本当にそう思ったのです。しかし、名は大切なものです。その人の本質を表します。名を聞かれて、たやすく、呼び名を知らせることはなかったようです。呼び名を知れば、その名によってその呼び名の人を自由に操作できると考えられていました。 「わたしはある」は神様の本質を表す言葉なのです。神様はご自分が何であるかを示されたのです。
「わたしはある」。「わたしはある」を動詞で考えてみます。「ある」とは、今、そういう状態になっていると言う表現です。「ある」は世界を、宇宙を、思いの通りにするために、事物を自由に造ったり、変えたり、消すのです。「わたしはある」・神様は世界を、宇宙を自分の思う通りにし、また、どのような状態にでも、変えることが出来るということです。
「ある」は動いていない状態ではなく、動いているのです。わたしはある、だからお前を造った。お前を生んだ。 人は神様によって造られた。わたしたちは神様のものです。神様はわたしたちを道具として造られました。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配する、世話をする役目を与えられたのです。自然が生きる。人が生きる。人が自然のために働く、人が人のために働く。すべてが生きる喜びを喜ぶのです。人は神様の思いの通り生きていますかと問われると、わたしたちは神様のものになっていないと知っています。人は自分の家の窓を閉めている。扉を閉めている。神様の光が入って来ない。神様の声を聞こうとしない。神様を信じるとは自分の家の窓を開けることです。扉を開くことです。自分の家とは自分の心、体、自分の全部です。神様の示された道を歩のです。エジプトの王ファラオは自分の心の家を城にしてしまっている。神様の御心なんか考えたことがない。自分を守ってくれる力しか神としない。
モーセ、わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。今、イスラエルが苦しんでいる。苦しみの叫びをあげている。それゆえ、わたしはエジプトに下り、イスラエルの人々を救い出す。エジプトのイスラエルの人々の生活は「わたしはある」の思い・神であるわたしの求める生活ではない。イスラエルの人々のところへ行き、言いなさい。エジプトから神様の示す土地、乳と蜜の流れる土地へ行くのです。「わたしはある」という方がイスラエルを導いてくださっている。イスラエルは神様のうちにいるのです。

何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生け贄に混ぜたことをイエスに告げた。そして、シロアムの塔が倒れてエルサレムに住んでいた18人の人が死んだ、そんな出来事が起こった。イエスは言われます。被害にあった人たちは罪深い者だったからそんな被害にあったと思うのか。出来事は皆、神様からのものではないか。悲しい出来事、苦しい出来事、苦難、困難が迫ってくる、そんな耐える事の出来ないような出来事が起こる。そんな災難はその人の罪の罰ではないか。先祖の罪を背負っているのではないか、そんな噂をするのか。それは人の判断することではない。起こった、そのすべての出来事を神様は見ておられるのです。どのように良い方向に向かってゆくのか。もうそんな事故が起きない、不注意がないように。それを考えるのです。良いものを造るため一緒に働きましょう。神様はそれを求めておられるのです。

ぶどう園がありました。ある人がそのぶどう園にいちじくの木を植えました。実が一つもなりません。3年も世話をしているのではないか。この木は実を結ばない木ではないか。切り倒してしまいなさい。実のなる木に植え替えなさい。ぶどう園の園丁は主人に言います。この木も実を結ぼうとしているのです。結べない。もう一年待ってください。今年もこのままにしてください。この木に特別に心をかけます。きっと、実を結びます。  ぶどう園は神様が造られた果樹園です。儲けるために働くのではありません。丁寧に、丁寧に、育てながら、良いものを作って行く。いちじくは信仰の木です。ゆっくり育てる。遅くても、年月がかかっても実は必ず結ばれる。待ちます。その人と結ばれて待ちます。実がなった、その喜びを一緒に味わうことが出来ますように。



戻る