徳川幕府崩壊後、明治新政府になって、ようやく辻つじのキリシタン禁制の高札が撤去されたのは、1873年(明治6年)である。3年もたたないうちに本所地区にはカトリック教徒が確実に増えはじめました。1876年(明治9年)ごろ築地教会を司牧していたラングレー師(1849〜1923年)は、浅草、下谷、本所の3地区にそれぞれ一つの説教所を設置して巡回していました。1879年(明治12年)6月、浅草教会助任司祭となったフォリー師は、同年10月、本所、深川地区の信徒の便宜を図って、現在地の日本家屋を買い求め、その家屋を利用して本所教会開設の任にあたりました。1880年(明治13年)4月11日、復活後2番目の日曜日(現在でいう復活節第3主日)に、フォリー神父によって建てられた小聖堂をミドン副司教らが祝別して、「大日本二十六聖致命」(現在では日本26聖人殉教者)にささげました。 1880年(明治13年)に、オズーフ司教は、パリ外国宣教会本部への『年報』(12ページ)報告のなかで、「首都の最も貧しく、最も人口の多い地域の一つである本所に聖堂と学校(複数)が設立された」と記しています。(ここで「学校」とありますのは、1879年(明治12年)9月に築地教会から浅草教会へ移管されていた男子孤児院〈当時は「孤独学校」と称していました〉を指し、それが複数と書かれているのは、旧武家屋敷の家屋が2〜3軒に児童約50名を分けて住まわせていたからだと思われます。) その後、本所教会は毎年受洗者が増加し順調に発展しました。東京市内にも麻布教会、関口教会が加わり、築地、神田、浅草と本所の6教会となり、よく合同集会の会場になり、千葉教会(現在の西千葉教会の前身)を加えた7教会の会合も本所教会が主会場になっています。 1905年(明治38年)9月6日に、日露戦争講和条約に反対する人たちにより焼き討ちにあいました。前日に開かれた日比谷公会堂における反対集会を、警視庁が中止命令を出し、発起人を検束したため、集会参加予定者たちを中心に暴動となりました。政府は6日、戒厳令を発したため、不穏を察した第一代主任司祭は聖体を司教座聖堂に避難させました。同夜11時過ぎ、暴徒一団が押し寄せ、聖堂、司祭館(教師館)、伝道場、コック住居、附属敬愛小学校が放火されました。さらに再度深夜に戻ってきた一団は隣家などにも火を放ちました。 この事件があるまで、本所教会はパリ外国宣教会によって司牧されていました。この地で外国人による宣教の難しさを賢明に配慮した当時の司教は、1906年(明治39年)、数少ない日本人司祭のうちから一人を第二代主任司祭として着任させました。災害を免れた教会敷地内の貸家長屋の二階大広間を仮聖堂に改造して使用しました。 1907年(明治40年)8月には、本所区が大水害に見舞われ、被害に苦しむ信徒が続出しました。しかし、この月に司祭館と信徒集会所の建築を開始しました。1909年(明治42年)には完成し、2月5日に信徒集会所に仮聖堂の移転を挙行しました。このときの信徒数は547名でした。 1909年(明治42年)9月に第二代主任が病気入院しました。(12月11日に永眠、谷中墓地に埋葬)10月に第三代主任司祭が着任しました。このお二人は、1900年(明治33年)9月16日に築地教会で司祭に叙階されていましたが、相次いで本所教会の司牧を担当することになりました。 1910年(明治43年)8月にも、本所区全域が大水害に見舞われ、一部の信徒は築地や神田の応接所に避難しました。教会の水深は14日には1.5メートルを越えました。罹災者は圧迫された生活の中を、復興に向かって徐々ながらリズムを取り戻していきましたが、1917年(大正6年)にも大暴風雨被害を受けました。しかし、仮聖堂の不便さを克服すべく毎年毎年資金を蓄え続け、1919年(大正8年)10月31日には、ギリシャ式天主堂として、献堂式がレイ大司教によって盛大に行われました。この年の信徒数は889名を数え、1922年(大正11年)には944名になりました。 1923年(大正12年)9月1日には、関東地方を襲った大地震(午前11時58分44秒、マグニチュード7.9、余震は1日222回、2日323回、3日181回、4日184回、5日109回、6日以降は急減)による災害で、本所天主堂も、所属信徒の家屋223戸を焼失、信徒の死者は138名にのぼりました。(その後行方不明者の死亡が判明、約200名を失った)主任司祭は九死に一生を得て、市川の信徒宅に避難し、その後3日間は罹災信徒らに対する捜査訪問に費やし、4日には関口の大司教館に移りました。9月16日に、浅草教会のバラック小屋で震災後初めてのミサが行われ本所からも参加しました。 11月5日には本所教会敷地の整地工事が始まり、1924年(大正13年)には、旧天主堂の北隣に仮聖堂建設、8月10日よりミサが始められ、12月には献堂式に漕ぎつけました。1925年(大正14年)信徒数は689名、1927年(昭和2年)727名、そして1932年(昭和7年)には837名となりました。 1935年(昭和10年)には手狭だった聖堂を増築、マレラ教皇使節を迎えて、その年の11月1日に祝別式を行いました。1942年(昭和17年)の信徒数は1,204名となりました。 1942年(昭和17年)には、旧聖堂正面玄関跡の南西には防火貯水槽が作られました。1943年(昭和18年)2月5日には、本所教会にある金属類器具鉄柵など、祭式に不可欠なものを除いて、すべて軍用資材として徴用されました。1944年(昭和19年)10月に、第三代主任は清瀬のベトレヘムの園に疎開、1943年(昭和18年)3月20日に大神学校聖堂で叙階された新司祭が、翌4月に助任司祭として着任、主任の疎開後、主任代理として教会内に留まり続けました。1945年(昭和20年)3月10日には、東京大空襲による戦災で、聖堂は三度目の全焼となりました。主任代理はこの空襲で焼死、遺体は確認されませんでした。さらに、5月8日には、第三代主任は老衰のため逝去されました。本所教会では1948年(昭和23年)7月までミサは行われず、信徒は隣接した教会でミサにあずかりました。 1948年(昭和23年)3月第四代主任司祭が教区連盟出版部長の兼任で任命されましたが住居がなく港区三河台町から通われました。7月30日に本所教会敷地内に、コンセット・ハット(カマボコ兵舎)二棟をつなぎ合わせて、仮聖堂とバラック建て司祭館を完成させ司祭も移転しました。1949年(昭和24年)4月21日には第五代主任司祭が着任しました。このころ教会に来ていた信徒は約30世帯125名でした。 1951年(昭和26年)には、現在の聖堂が再建されました。6月24日には土井辰雄大司教による献堂式が行われ、このときの信徒数は409名でした。1954年(昭和29年)11月1日に教会創立75年記念ミサを行いました。1979年(昭和54年)元旦から1980年(昭和55年)2月3日までを本所教会創設100周年として記念しました。 1994年(平成6年)4月、第六代主任司祭が就任。その直後に45年在任した第五代主任が逝去され、長きにわたる司牧の労苦に感謝して盛大な葬儀となりました。また、1997(平成9年)には、日本司教団主催の長崎での「日本26聖人殉教400年祭」に合わせて、ここ本所教会でも歴代主任司祭が力を入れ祝い続けてきた伝統に思いを馳せ、400年祭の記念行事が展開されました。 1999年(平成11年)10月に第七代主任司祭が着任。六代、七代と本所教会出身の司祭が続きました。第六代主任は1998年(平成10年)10月病気で倒れ、惜しまれつつ逝去されました。かねて主任代理として赴任しておりました第七代も、病が悪化して退くことになりました。 2000年(平成12年)5月、第八代主任司祭が着任。思うように改革の進まなかった教会を、まず第二バチカン公会議の精神に沿って聖堂内大改修を行い、聖書に主きをおいて、信仰講座、典礼講座(典礼聖歌練習を含む)、聖書講座などの信仰生活の刷新を計っています。 2003年(平成15年)4月から始まる教区再編成では、本所、浅草、上野の下町三教会をそれぞれ聖堂区として、一つの宣教協力体を構成することになっております。 また、1949年(昭和24年)4月に教会敷地内に設立された本所白百合幼稚園も、すでに4,000名以上の卒園生を世に送り出し、この地域での福音宣教の一翼を担い続けております。 なお、本所教会の歴代主任司祭は
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