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2015年2月1日
「日本二十六聖人殉教者祭」
ミサ・講話
ミサ主司式
マッティアス赤波江謙一師(聖パウロ修道会)
共同司式
ステファノ・ボナベントゥラ加藤英雄師 |
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●ミサへの招き 赤波江師 |
2015年2月1日(日)、本所教会
少し、お座りください。
1597年1月3日朝早く、京の都は凍てつくような寒さです。捕らえられたのは男性ばかり24人。京都と大坂に住んでいる司祭・信徒たちで、年齢も、職業もまちまちです。驚くべきことに、日本で初めて聖人が誕生したこの殉教に、日本人だけでなく、ポルトガル人、スペイン人、インド人、メキシコ人、韓国人、中国人が、ヨーロッパ・アメリカ・アジアなど、世界中の様々な国の人々が居合わせていたということです。
役人たちに先導された切支丹24名。縄で繋がれて引き立てられ、京都奉行所から四条の地へと連れてこられました。都の人たちは、ただならぬ騒動に気づいて起き出し、ガヤガヤと集まってきました。役人たちは切支丹たちを並ばせ、人々の見ている目の前で右の耳たぶを削ぎ落とします。鮮血が滴り落ち、激しい痛みと寒さに彼らはワナワナと震えながらも、静かに耐えています。襟と畳は赤黒い染みが拡がっていきます。12歳の幼いルドビコ茨木、13歳のアントニオたちも、声を出しませんでした。しかし、無情にも見物人たちはいきり立ち、口汚く罵声を浴びせた。唾を吐きかけ、石を投げ。石は容赦なく頭や顔に当って血がにじみ出るも、誰も、その石を避けようとはしなかった。24名は小羊のように柔和に耐えながら、人々からされるがままだった。その姿はさながら十字架を担ってカルワリオの丘に向かうイエス・キリスト、そのものでした。
役人たちは見物人を後退させ、出発の号令を掛けます。
「立て。」
彼らは後ろ手に縛られて荷車に乗せられ、長崎の西坂処刑場へ出発していきました。
京都から長崎までの、33日間に及ぶ厳しい旅でした。籠や牛車、小舟にも乗せられましたが、草鞋は履きつぶしてしまい、ほとんど裸足で歩き続けました。途中で2人の信徒が自ら名乗り出て一行に加わり、殉教者は26名になりました。身を切るような寒さ。雪解けのぬかるみ。鋭い刃物のような霜柱。激しい疲労と渇きに、彼らの体力はもはや限界かも知れません。それでも彼らは、最後の気力をふるって、賛美の歌を唱って、力を奮い起こし、声を掛けあって励まし合い、支え合って。息も絶え絶えとなる、賛美の歌も途絶えかけたその時、見よ、坂道の遙か彼方の丘に、西坂処刑場が見えます。
思わず喜びの叫び声を上げ、一斉に駆け上がって行きました。処刑場には、ひとり一人の名前が記された十字架が準備されていました。彼らは自分の十字架を探して走り寄り、うやうやしく口づけをして神に感謝の祈りをささげます。26個の十字架は、3,4個の間隔で長崎の街に向かって一斉に並んでいます。それは、何とも凄惨で痛ましく、それでいて、何と美しく荘厳な光景だったことでしょう。
やがて、鞘は払われ、槍を持った役人が2人ずつ対になり、中央から両脇へ別れていきます。槍は殉教者の目の前で十字に組み合わされました。殉教者たちは静かに天を仰いでいます。長崎奉行寺沢半三郎が居ずまいを正しておもむろに「よし。やれ!」と、命令一下、二本の槍は脇腹から背中を貫き、鮮血が飛び散って、体がのけぞりました。
一瞬の静寂の後、群衆のどよめきがこだまして、彼らは最期の息を引き取りました。
1597年2月5日午前11時頃のことです。
耐えるべきを耐え、走るべき道程を走り尽くした26名の聖なる魂は、永遠の安息を受けるべく神の御許へと昇っていきました。
お立ちください。
皆さん、神聖な祭を祝う前に、私たちのおかした罪を認めましょう。
全能の神と、・・ |
●「ミサ中の説教」 赤波江師 |
第一朗読 マカバイ記(マカバイ 二 7・1-2,9-14)
第二朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ 2・19-20)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ28・16-20)
朗読(加藤師)
『(そのとき、)十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』
ミサ説教(赤波江師)
改めてご挨拶を申し上げます。私は聖パウロ修道会の赤波江神父と申します。まぁ「あかばえ」と聞いたら「赤い蝿」と思われる方がいても別に怒りませんけど、「赤波江」というのは、ルーツをたどれば長崎県五島列島の小さな村の名前であり、そこに住んでいる者は皆「赤波江」というのです。隠れキリシタンの末裔たちが住んでいる所で、でも、過疎化が進みましてね、あと10年もしたら誰も居なくなるだろうと思うくらいの、小さな村であります。私はそこで生まれたわけではないのですけれどね。この度、日本二十六聖人に捧げられたこの教会でミサを捧げるに当って、加藤神父様からいきなり電話がありまして、ミサをやってくれと言われ「何で私が?」と不思議に思ったのですが、これも何かの巡り合わせということでもありましょう、喜んで、十字架を引き受けるつもりでやって参りました。
さて、今日はこの教会が捧げられている日本二十六聖人の殉教者のミサが、特別にここで捧げられているわけですけれども、この「殉教者」という言葉をお聞きになる時に、多くの人々が、その遺徳をたたえ、そして、その苦しみを受けられた、十字架を受けられたそのことを賛美し、感謝するということに思いが馳せられるのではないかと思います。この「殉教者たち」は、必ずしもみんなが十字架を担ったとか、十字架につけられたということではないのですが、その苦しみをお捧げになったという、その事を十字架というふうにとらえるならば、この「十字架」ということについても、カトリック教会では、賛美とか、称賛とか、礼拝という言葉をそこに結びつけるというのは、これはもう伝統的なことで、十字架を見たら頭を下げて礼拝をする、そして、9月14日の「十字架称賛」の祝日には特別にまたミサが捧げられ、そして、聖週間の聖金曜日には十字架の礼拝が行われるという、その十字架の称賛・十字架の礼拝・十字架への賛美ということを考える時に、この称賛・賛美・礼拝と、殉教者に対する思い、十字架に対する私たちの思いというものは、これはよくよく考えてみると、特別なことであるように見えながら、実は私たちの日常的な礼拝・賛美・称賛というものと、何か同じような次元でとらえられているというような気がするんですね。
それは、例えば、日本人がノーベル賞を受けたという時に、これを喜ばない人はいないですね。我が同胞が栄えあるノーベル賞をもらったと。みんな心の中で良かったと称賛しますね。賛美しますね、礼拝はしませんけど。山中伸弥さんが凄いことをした。凄いなぁ、これは称賛に値すると、みんなが称賛するわけです。でもそれは、私とはあまり関係が無い。あの人は偉い、あの人は凄いというような称賛の仕方ですね。スポーツを見ていて、オリンピックで凄い記録を出した人に対して、良かった良かったと。それが日本人ならば、凄い凄いとマスコミがはやし立てるし、みんなもそれを聞くと、心が浮き浮きするぐらいにね。でも、私とは全然関係が無いわけですよね。あの人は偉い。凄い。それで、次の日になったら・・・。そんなに毎日毎日、称賛し賛美しているわけではないですよね。新聞を見終わったら、新聞を捨ててしまいますよね。それは、記憶に残るけれども、いつまでも、馬鹿みたいに賛美しているわけじゃないですよね。忘れちゃうんですよ。
皆さん、もしかして。十字架の礼拝とか、十字架の称賛とか、今日は殉教者をたたえているという、この殉教者をたたえるということについても、同じような讃え方をしてはいませんか? 今日が終わったら、この聖堂を出て行ったら・・・。来年のこの日まで、二十六聖人を思い起こして二十六聖人は素晴らしいと言って礼拝し賛美する人は、どのくらいいるかなぁと思うのですね。一年間、ご無沙汰しておりましたとやって来て、そして二十六聖人のミサに与って、また称賛して、賛美して、家に帰って、また一年間忘れてと。そういう称賛をしてはいませんか? 十字架についても同じですね。聖金曜日になると十字架の礼拝があります。イエズスさまが私たちのために十字架にかかってくださった、その十字架に対して心からのうやうやしい態度でもって、頭を下げて礼拝をする。でも、それが終わって、家に帰ってまで十字架の礼拝をしているわけじゃないですよね。また来年の聖金曜日まで、十字架の礼拝というのはそんなにしないでしょう。聖堂に来て十字架があれば、頭を下げるけど、礼拝といえるかどうかね。十字架についてのイエズスさまの教えというのは、そんなにたくさんないです。イエズスさまはご自分が十字架におかかりになりました。そして私たちのためにいのちをお捧げになって、私たちの罪を贖ってくださいました。これはイエズスさまがなさったことで、私たちはそれを感謝します。賛美します。そして、その十字架を礼拝します。でもイエズスさまは、この十字架について、十字架を賛美しなさいともおっしゃっていない。十字架を礼拝しなさいともおっしゃっていない。十字架に感謝しなさいともおっしゃっていない。イエズスさまが十字架についておっしゃっていることは、ひとつしかないんですよ。それは何だと思いますか。それは、「私の後について来たいならば、自分の十字架を背負って私に従いなさい」という言葉だけなんですね。それは、イエズスさまが十字架におかかりになるずっと前に、まだ弟子たちが、イエズスさまと十字架を結びつけることの出来なかった時に、イエズスさまが弟子たちにおっしゃった。「私の後についてきたい者は、日々、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」十字架を礼拝するとは、十字架を賛美するとは、十字架を称賛するとは、十字架を担うということに他ならないということです。そして、イエズスさまは「日々の十字架」とおっしゃる。一年に一度手を合わせて十字架を礼拝するその礼拝は、それは、一年に一度、お正月に神社仏閣に行って、頭を下げて賽銭をあげて礼拝をするそれと、そんなに変わりがない。来年になったらまた来ます。一年にいっぺんの初詣と、さして変わらない礼拝を私たちはしているのではないかと。十字架というテーマは、これは、福音を通して、最初からずっと、最後まで貫き通されている大切なテーマです。
去年の暮れに、私たちは主の降誕を祝いました。キリスト教、カトリックは特に、待降節から降誕節というのがあって、降誕節中、教会はそのクリスマスの余韻を祝っています。けれども、一般的には12月24日のイブが終わり、そして25日が過ぎたら、もう年末の準備にかかり、クリスマスなんて来年の12月24日までおさらばだということになってしまう。それはおかしいんじゃないかと、カトリック信者は思う人もいるかも知れない。けれども、よくよく考えてみると、あの場面には、いつまでもイエズスさまが来てくださったと祝っている場合じゃないよという大切なテーマが、あの中にはもうすでに示されている。それは、生まれたばかりの幼子イエズスが、布一枚巻かれて寝かされたあの飼い葉桶は、既にそこに、布一枚まかれて十字架に、磔にされた十字架が、そこにもう暗示されている。あのベツレヘムの馬小屋は、貧しいカルワリオの丘へと、やがて変えられていく。ベツレヘムという町は、エルサレムという街に変えられていく。もうすでに、あの場面に十字架が暗示されている。そして、イエズスさまが十字架におかかりになってお亡くなりになるまでの、あの33年間のご生涯の中に、マリアさまを通して、ほかの聖人方を通して、そして、イエズスさまご自身が、折に触れて十字架を、私たちに示しておられる。私たちがキリスト者として、本当に、この殉教者を讃えるということであるならば、殉教者が担ったこの十字架を私たちも、日々の生活の中で、意識して担うということによって、本当の十字架の礼拝がそこでなされる。頭を下げなくても、主が私たちにくださっている、小さな小さな十字架を頂くことによって私たちは、十字架を称賛するということになる。十字架を担わない称賛はあり得ない。十字架を受け取らない礼拝はあり得ないという、そのことを、この殉教者を讃えるこのミサの中で、しっかりと心に認識していかなければならない。
私たちは、この十字架というものに対する感覚さえも、やはり同じように、礼拝・称賛・賛美と同じように、十字架というものに対しても、一義的なとらえ方しかしていないかも知れない。十字架について、どれだけ詳しく、分り易く説明したと思っていても、やはり、それに対する反応というのは、個人的に私が聞く反応というのは、それでもやっぱり十字架を担わなければなりませんかという、そういう反応です。十字架は、一義的にはこれは死刑の道具です。イエズスさまは死刑の道具を担いでカルワリオへと向かわれました。そして、その死刑の道具に自らおかかりになって、いのちをお捧げになりました。イエズスさまが私たちのためにかかってくださったこの十字架というのは、イエズスさまがおいのちを御父にお捧げしたその瞬間から、私たちにとっては、もうこれは、死刑の道具ではなくなったのです。十字架と聞けば、信者じゃなくても、カトリック信者じゃなくても、キリスト信者じゃなくても、一般の人でも、苦しいことの代名詞というふうにとらえるでしょう。だから、出来ることなら十字架は避けたい。出来ることなら十字架は担いたくない。イエズスさまがおかかりになったんだから、それは礼拝するけれども、私に与えられる十字架は、なるべくなら避けて通りたいというのが心情だと思います。けれども、イエズスさまが「私の後についてきたい者は、自分の十字架を背負って私に従いなさい」といわれるその十字架は、別の言葉で言うならば・・・重荷を負う者は、苦労している者は、労苦している者は、私の後に来なさい、そして、私のくびきを受けなさい、私のくびきは負いやすく、荷は軽いからであるとイエズスさまはおっしゃる。私たちの日常的な常識から考えるならば、この言葉は矛盾です。苦労している者は、労苦している者は、私のもとに来なさい、私はあなたの十字架を取り去ってあげようというふうにイエズスさまはおっしゃらない。労苦している者は私の後に来なさい、私の所に来なさい、そして、私のくびきを負いなさい、そうしたら楽になるとイエズスさまはおっしゃる。普通、逆でしょう? くびきを負ったら、もっと苦しくなる。けれども、福音の神秘が、イエズスさまの言葉の神秘が、ここにある。
自慢話になるようで、あまり言いたくないんですけれども、私は十字架に対する自分の信仰というものを、勇気を持ってイエズスさまにお捧げしている。朝イチのお祈りは、主よ、十字架を与えてください。今日の十字架を与えてください。十字架がなかったら、そこから何も生まれてこないということを、私は教えられています。十字架を担わせてください。十字架を担うことによって、私はきついかも知れないけれども、その十字架を担うことによって、私の周りに愛が伝わることを私は知っています。「十字架をください。」私の朝イチのお祈りはこれです。共同体で、修道院でみんなと一緒にお祈りをする前に、ベッドに座って最初にする祈りは、このひと言です。「主よ、今日の十字架をお与えください」十字架が嫌なのは、担う前から拒絶反応を示すその理由は、それは、人間の想像の中にあります。これを担ったら苦しむに違いないと。これを担ったら馬鹿を見るに違いないと。これを受け取ったら、私は苦労するに違いない。だから、その苦労を先取りして、十字架は要りませんということになる。でも、十字架の中に、主のみこころ、主の摂理、私に対するイエズスさまの愛を感じるならば、十字架を担うことによって、私がその十字架を担うことによって、私に関わりのある人に、キリストの謙遜が伝わり、キリストの愛が伝わり、キリストのぬくもりが、キリストの息づかいが、この十字架を通して伝わるということを理解しなければならない。これは神秘の話です。信仰の神秘の話です。信仰の話は、私たちが、自分の人間的な次元ではこれを理解し実現することのできない次元のものです。神の霊だけが、私たちにこのことを実現させてくださいます。
皆さん、この教会が捧げられているこの日本二十六聖人の遺徳をたたえるということであるならば、ただ口で讃えることではなくて、ただ頭を下げて礼拝し賛美するということではなくて、自分の生活の中で、この殉教者の精神を。ミサのはじめに敢えて今日のミサを意識して頂くために、この殉教者の道を、簡単にたどりました。彼らが最後に行き着いたこの死刑の道具を、喜びをもって受け入れた。これにうやうやしく口づけをした。そして、それにかかって永遠の幸福を得たという、このことを、私たちの日常生活の中に、反映していくことが出来るように祈らなければならない。殉教者の取り次ぎを願うということは、そういうことです。ただ口だけで虚しく賛美することがないように。ただ記憶だけで虚しく遺徳をたたえるということがないように。私たちが日常生活の中で、私たちに示される小さな十字架を、喜びをもって受け入れることが出来るように、殉教者の取り次ぎを願いましょう。あなた方が受けたその永遠の救いに至る十字架を、私たちも喜びをもって受け入れ、それによって、信仰の神秘を、自分ひとりが受けて自分ひとりが救われるというのではなくて、救いを必要としている人に、この十字架を通して愛が伝わっていきますように。キリストの息吹が、キリストのぬくもりが、キリストのへりくだりが伝わっていきますように、私たちに十字架をください。皆さん、勇気を持ってこの十字架をお願いして頂きたい。十字架をください。十字架の中にすべてがある。十字架を拒絶するところに信仰は無いと考えなければならない。
殉教者の取り次ぎを願いながら、このミサを捧げて参りましょう。 |
●講話「キリストの証し人」 マッティアス赤波江謙一師(聖パウロ修道会) |
赤波江師:
典礼聖歌5番「あなたのいきを」の繰り返しのところを1回だけ歌いましょう。
♪ あなたの息を送ってください すべてが新たになるように ♪
父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。
この時間は講演ということになっておりますけれども、神父が聖堂の中でするのは、講演というよりも、講話ということになるのではないかなぁと思うのですね。講演というものはあまりやったことがないんです。私はね。まぁ司祭の話ですから、一般的な話ではない、ちょっと黙想会的な話になるかと思います。そのタイトルを何になさいますかと、二週間ぐらい前でしたか、加藤神父様から伺って、それで、あまり長いこと考えないで「キリストの証し人」ということにしてくださいというふうに申し上げたのです。別に思いつきで言ったわけじゃなくてね。私の司祭としての大切なテーマでもあるので、このテーマにさせていただきました。今日は、二十六聖人の記念ミサの日ということでありますので、殉教者の遺徳とあわせながら、「キリストの証し人」ということについて、ちょっとご一緒に考えてみたいと思っています。
教会には、特にカトリック教会には、聖人という方が数多くおられるのですけれども、この聖人という方を大別すると、これは2つに分かれると思います。ひとつは、証聖者といわれる方々、そして、もうひと方は、殉教者といわれる方々ですね。証聖者と殉教者。証聖者といわれる人たちというのは、読んで字のごとく、聖なることが証しされた人たちということなんですね。昔からの、伝統的な証聖者といわれる方のなかには、例えば、エリザベトとか、マリアさまのご両親のアンナとヨアキムとか、こういう方々というのは、証聖者ではあるのですけれども、いわゆる、人間が調査した結果、証聖者となった人ではないですね。エリザベトが聖人なのに、どうしてザカリアは聖人じゃないんですかと、ある人に聞いたことがあるんですけれども、答えは返ってこない。ザカリアは悪い人ではなかったんだけどね。聖書には、ふたりとも、エリザベトもザカリアも神の前に正しい人で、非の打ち所がなかったと書いてある。それでエリザベトは聖人になった。で、ザカリアは聖人に・・・なれていないんですね。これは不公平じゃないかと。男としてはですね、ザカリアも聖人にしてやれよって言いたくなるんですけど。ザカリアは、ちょとばかり、疑ったばっかりにねぇ。「どうして私がそのことを知ることが出来るでしょうか。私も妻も年を取っていますのに」と言ったばっかりに、天使から「お前は時が来れば実現する私の言葉を信じなかった罰として、その子が産まれるまで口がきけなくなる」と言われて、罰をくだされたから、それで聖人になれなかったのかなぁと。そのぐらいのことでねぇ。可哀想じゃないかって。可哀想というのはちょっと変な話ですけども、だからと言って、このエリザベトは、調査された結果、聖なる人であると証しされたわけじゃない。ですからね。
私は自分の修道名というものを――私たちの修道会では、今はそうでもないのですけれども、昔は洗礼名があって、堅信名があって、そして修道名というのがあって、3つの名前を持っているのですね。私の修道名は「聖フランシスコ・サレジオ」なんです。けれどもね、これは、私、本当は「アシジの聖フランシスコ」にしたかったんです。その時の修練長に呼ばれて、あなたは修道名を何にしますかというので、私はアシジの聖フランシスコにしたいですと言ったら、その時の修練長がイタリア人の修練長だったんですけれども、「私たちの修道会では、伝統的に神学生は教会博士の方を聖人にいただくことになっています。同じフランシスコなら、教会博士のフランシスコであるフランシスコ・サレジオにしたらどうですか」と言われてね。従順の誓願を立てる前でしたので、ここで逆らうのもなぁと思い、「わかりました」となったんです。アシジの聖フランシスコに出来なかった恨みはないんですけども――途中で、もしもう1回、名前が代えることができるなら、私はザカリアにしたいなぁと。ザカリアはちょっとばかり疑ったんですけれどもね。私も疑い深いところがあってね、不信仰なところがあるから、ザカリアの徳をならって、ザカリアのように、ザカリアの賛歌を歌えるような人になりたいなぁなんて、まぁ話が少しそれていますけれどね。
証聖者といわれている方々で、一番最近の証聖者は、ヨハネ・パウロ二世でしょうね。聖ヨハネ・パウロ二世教皇。そして聖ヨハネ二十三世教皇ですね。この方々は、特にヨハネ・パウロ二世教皇は、亡くなられたのは2005年でしたか。ですから10年経たないうちに聖人になられたのですね。たくさんの資料があったのでしょう。最初に福者になられたんですが、福者になる時に、もうひとつの条件としては、その人の取り次ぎによって奇跡が行われなければならない。それで、聖人になる時も、やはり、その福者の取り次ぎによって、奇跡が行われなければならないと言われているのですね。このお二人のお取り次ぎによって、ポーランド系のシスターのパーキンソン病が良くなったという話を聞いています。それで、この人の生涯というのは、聖なる生涯であったということが証しされて、バチカンで証しされて、それで聖人になられたわけですね。
ところが、同じ証聖者のはずなんですけれども、なかなか難しいのが高山右近です。高山右近という人は、殉教者ではないのですね。この人は病死されたんです。ところが、昔のことなので資料が無いのですね。この人の生涯が聖なるものであったとか、この人の取り次ぎによって奇跡が行われたとか、そういうものがなかなか無いもんで、今度の列福するのも、なかなか時間が掛かっているわけです。でも特に、関西の方、特に大阪・高槻教会が高山右近に捧げられた教会で、関西の方では、この高山右近の列福を、早くしてもらいたいといってバチカンに申請をしたり、一生懸命に熱意を示している。もうすぐ、たぶん、奇跡とか、殉教とか、そういうこととは関係なく、高山右近も福者になるのではないかと思われていますね。
福者にはまだなってはいませんけれども、「蟻の街のマリア」の北原怜子さんが、福者の前の「尊者」になったということが最近の新聞に載っていましたね。まぁ最近の人ですから、調査されて尊者になられて、そして奇跡が起きたら、あの人も福者になられるかも知れません。また長崎では、永井隆博士も福者に、という運動が一部にあるんですね。日本よりも、外国の方でそういう運動があってね。地元の長崎ではあまり熱心ではないと。熱心じゃないというと長崎の方から怒られそうですが、あまり詳しいことは知りません。外国の方で永井隆の生涯は素晴らしいものであったということが伝えられている。そういう話をチラチラと聞くんですね。そういうのが証聖者といわれる人たちです。
そして、殉教者といわれる方たちは、これは殉教ということが、ハッキリと教えのためにいのちを捧げたということであるならば、その人たちは奇跡が無くても福者になれる、聖人になれるというのが、カトリック教会の、ひとつのやり方であるのですね。二十六聖人が聖人になったのは、今から153年前の1862年です。でも、福者になってから聖人になるまでにちょっと時間が掛かったんです。1862年に列聖された。それは、奇跡がおこったということではなくて、この人たちは本当にその生涯が、神に捧げられた証し人としての生涯であったということが、殉教ということによって証しされたということなんですね。ですから、この聖人といわれる方というのは、いずれにしても「証し人」ということなんですね。「キリストの証し人」ということなんです。キリストを血によって、いのちによって証しした人たちが殉教者といわれる人たちで、その生涯を通してキリストを証ししたということが証明された場合には、証聖者という聖人になるということなんです。今さら説明するまでもない、有名な、明らかな話なんですけれども。
さて、今回のこの時間には、キリストの証し人ということで、そういう人たちのことを念頭に置きながら、私たち自身が、証し人にならなければならない。聖人になろうということではなくてね。うちの修道会の創立者は、亡くなってまだ百年経たないのですが、この創立者が生きておられた時に、聖人になりなさいと私たちに勧めていたことがあるのです。私はちょっとひねくれているので、「聖人になりなさいってか。聖人になろうと努力したら、聖人になろうと努力すること自体が、何か偽善っぽいじゃないの? 聖人になろうと思ってなった人はいないと思うよ。一生懸命にキリストの証しに専念した人が、結果的に、これは聖人だったと認められて聖人になるのであって、聖人になろうと思ったら、何か、何か鼻につく、何かそんな人になりそうで。聖人にならなくてもいいや。」なんて思ったりして。
ここにはそういう人がいるかどうか知らないですけれども、あまり、あちこちに伝えられたら困るんですけど。高山右近という人が、列福されようとしている。高山右近さんにね、ちょっとこの前、聞いたんですよ。高山右近さんは、そんなに聖人になりたいんですか?と聞いたらね、「全然」。私は聖人にならなくても良いと。ただ私を大事にしてくれるんだったら、あなた方も私と同じように、キリストの証し人になって欲しい。その模範を私は皆さんに残したのであって、聖人になるかどうかというのは、それは、生きている人間の話であって、亡くなって神の前に行った人は、聖人にならなくたって、それだけでもう皆、神の前に行った人は聖人なんだよと。
だから、教会が聖人と名前を付けて、地上で敬われるかどうかという話じゃなくて、皆、キリストの証し人になりなさい、なって欲しいというのが、これはすべての聖人の望みじゃないかと思いますね。聖人として尊敬するかどうかという話じゃなくて、私たちが本当に聖人を尊敬するというのであれば、朝のミサのなかでも申し上げたように、私たち自身が、証し人にならなければならない。証し人になるということが、聖人を尊敬するということと繋がるということであるわけですね。
ですから、この、証し人になる、まぁ簡単に言うんですけれど、これは、なかなかこれは難しいことですね。これはもう、私自身が、いつ頃からか判りませんけれども、たぶん、2004年か2005年の頃からだったと思います。それは、ある黙想指導で、指導者が亡くなられて、その指導者が亡くなったので手伝いをして欲しいと頼まれてそこに行くようになって、毎月今でも行っているのですが、そこの人たち、そこに来る黙想者の人たちに話をしていくなかで、ある時、ひとりの黙想者が、常連の黙想者が私に言ってくれて。「ああ、そうか」と思うことがあったのですね。「最近、神父様のお話のテーマが分かってきました。」「え、何?」と言ったら、「それは、証しということです」「へぇー」と、人から言われて分かったんですね。そういえば、証し、証しと、最近よく言っているなぁと思ったことが、10年ぐらい前にあったんです。ですから、それを意識しだしたのが10年ぐらい前ですけれども、たぶん、それ以前からもずっと、この「証し」ということを、すごく大切なことだということを、福音書を通して教えていただいたような気がするんですね。
それは、最初にこの「証し」ということについて、イエズスさまの言葉のなかで、気になった大切な言葉というのは、ヨハネ福音書の5章31節にあるイエズスさまの言葉です。
「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」(ヨハネ5・31-32)と、イエズスさまはおっしゃるのですね。ということは、イエズスさまご自身も、ご自分のことを証ししたいという望みを持っておられたということでもあるのですね。ただ、その証しをしたいというものを、自分でやったら、これは間違ってしまうということ。だから私は自分のことを決して証ししない。証ししてはいけないのだと。自分のことを証ししてはいけないのだと。私のことを証ししてくださる方は、別におられる。その方が私についてなさる証しが真実であることを私は知っているから、私は自分の証しを、その人に、すべてお委ねしている。そういう意味であるわけです。イエズスさまご自身も、人間として、それは、神の子としてはそういうことをおっしゃらなかったかも知れないけれど、やはりイエズスさまは、まことの人であり、まことの神であられたわけですから。まことの人であると。私たちと、罪を犯されなかったけれども、私たちと同じように生きられたということであるならば、イエズスさまご自身も、ご自分のことを証ししたいという望みを持っておられた。けれども、自分の行いが自分を証しするということを、非常に恐れられた。恐れられた。だからこそ、イエズスさまは、病を癒していただいた人たちに対して、決してこのことを人々に伝えてはならないと厳しく言われた。それは、そんなことをされると、私の仕事がやりにくくなるとか、私はそういうことをされるのが嫌いだとか、好きじゃないからという、そういう話じゃないと思いますね。もっと根本的に、自分がやったわけではないのに、すなわち、聖霊がイエズスさまを通してこの奇跡を行われた。聖霊がイエズスさまを通してこのことを語られたのに、まるで自分がやったかのように、ナザレのイエズスである自分がやったかのように人に伝えられて、そして、自分が人々の前で証しされるということを、イエズスさまは恐れられたのですね。だからこそ、禁じられたと。
この、イエズスさまの証しというものについて、それは、この福音書のなかでハッキリと述べられているのですね。イエズスさまの言葉ではないのですけれども。それは、イエズスの誘惑という箇所です。
ご承知のように、イエズスさまは宣教をお始めになる前に、荒れ野で悪魔の誘惑を受けられます。40日間、断食をなさった後で、まず悪魔は、イエズスさまに「お前が神の子ならば、この石がパンになるように命じたらどうだ」と、誘惑をするわけですね。誘惑です、これは。福音史家は、三人ともこれを誘惑といっている。神の子であるキリストは誘惑されるはずはない。でも、人の子であるイエズスさまは誘惑をされたという。皆さん。これまで長い間生きてこられてね、昨日今日生まれた人は、ここにはいないと思うんですけれども、長い人生のなかでいろいろな誘惑にあって来られ、ある時は誘惑に勝ったこともあるし、ある時は誘惑に負けたこともあると思います。この誘惑というのは、それぞれの、人間の弱みにつけ込まれることであるわけですから。同じことが、すべての人間の誘惑になるとは限らないですね。簡単な話でいうならば、お酒に弱い人とか、甘いものに弱い人とか、光りものに弱い人とか。誰かが言ってた、お笑い芸人が言ってたね。「光り物、妻はダイヤで俺はサバ。」光りものに弱い人もいるわけですね。光るもの、ダイヤとか宝石とかに全然興味のない人にとっては、それをいくらぶら下げられても、これを遣るから悪いことをしろと言われても、そんなものは要らんと。そんなもので私は悪いことはしない。そのように人によって違うわけですから。でもイエズスさまが誘惑に会われたということは、イエズスさまも弱みを持っていたということですね。どういう弱みか。それは、「お前が神の子なら、この石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑ですね。荒れ野のなかで、そこにいるのはイエズスさまと悪魔しかいない。この石がパンに変わったからといって、多くの人々がそれを見て、すごい、この人は神の子だと称えるえるわけじゃない。でも、イエズスさまは、お腹が空いたから、よしやってみようと言って、その悪霊の誘惑に負けて、この石をパンに変えたらね、やっぱり自分の中にね、ひとつの自己満足が生まれるのですよ。やったと。俺には力がある。ほかの人は誰も見ていないけれども、私は自分自身に対する証しをすることが出来たという、自分自身への「証し」ですね。
皆さんも、なかには人に褒められるのが生き甲斐というような人も、もしかしたら、この中にいるかどうかは知りませんけれどもね、皆さんの知り合いのなかにはいるかも知れません。皆さんには、そういうことは全然無いかも知れない。けれども、でも密かに、自分の自己満足を求めるこの誘惑というものはあるんですよ。人は認めなくても良い。でも私には密かに、これだけは絶対に人には負けないというものが。これだけで自分のことを証し出来るものを何か持っているという、それによって、自分の自己満足を求めようとする、この誘惑というものは、あるはずです。全くないという人はいないと思うんですね。でもイエズスさまは、この誘惑に打ち勝たれた。人はパンのみによって生きるものではない。神の言葉によって生きるものであるといって、聖書のことばを使って悪霊の誘惑を退けられた。今度は、悪霊はイエズスさまを高い神殿の屋根に連れて行った。そして、ここから飛び降りてみろと。敵もさる者ひっかく者といいますけど、今度は聖書のことばを使って、悪霊はイエズスさまを誘惑するわけですね。
「お前の足が石に当らないように、天使が来て支える」と、聖書に書いてある。飛び降りてみろ。高い神殿の屋根です。そこから飛び降りる。下からみんなが見ている。飛び降りたら真っすぐに落ちて、みんなが、ああ死んでしまったと思う寸前にふわっと止まるだろうと。そうしたら、これはもう、皆が神の子として認めるだろうと。お前が神の子ならばやってみろと悪霊は言うわけです。でもイエズスさまは、人々の前に自分を証しすることをお望みにならなかった。この誘惑も退けられた。最後に悪霊は、世の富と栄華をすべて見せて、俺を礼拝するならばこれを皆お前にやろうと。こう言った時に、イエズスさまは、「サタン、退け」と言ってこの誘惑を退けられた。この最後の誘惑は、これは人間としての証しの誘惑ですね。さきほど光りものの話をしましたけれども、人間どんなに頑張ったって、光りものにはなれないんですよね。この、光りものを持っているこの私を見ろと、私にはこれを持つだけの力があるんだという、この光るものによって自分のことを証ししたいという誘惑がそこにあるんですね。骨董品というものを、皆さんは興味があるかどうか知りませんけれども、私は骨董品には全然興味がない。でも、骨董品に興味がある人は、この壺は、この掛け軸はとね。どんなに頑張ったってその壺になれるわけではないのに、どんなに頑張ったって掛け軸になれるわけはないのに。これを持っている私は凄いんだと。それは何千万円とするものであっても、それを売って、貧しい人に施せば良いのかも知れないけれど、これは実は何千万円もするものだと持っていて、死ぬまで持っていて、死んだら何になるのかと。馬鹿みたい、という話ですよね。骨董品によって、自分の証しをしようとするわけです。イエズスさまは、この誘惑も退けられた。誘惑です。みんな誘惑です。イエズスさまにとって、誘惑だったんですね。それくらい私たちは、自分のことを証ししたいという誘惑をみんな持っている。
キリストの証し人にならなければならない。キリストの証し人になるということが、こんなに楽で、こんなに平和なのかということを体験するならば。キリストを証ししたいと思う一方で、でも、この自分の証しをしたいという、この気持ちから、自分を切り離すことは出来ないという、このジレンマ。皆さんは、自分のことを証ししたいということを誘惑とお感じになったことがあるかどうか知りませんが、いま申し上げた、この聖書の誘惑というものは、新約聖書の最初に出てくる誘惑の話ですね。新約聖書です。マタイも、マルコも、ルカも記している。旧約聖書の最初に出てくる創世記の中にも誘惑の話が出てくるでしょう。創世記の3章に。旧約聖書と新約聖書の、それぞれ最初に誘惑の話が出てくるというのは、何かすごく意味のあることのような気がするんですね。人類の最初の罪はいったい何であったかというと、それは、エデンの園の話のなかのメッセージ――エデンの園の話をそのまま文字通りに信じるかどうか、公会議の前ぐらいまでは、みんな信じていた。だけど、だんだんと、聖書学者も信じなくなってきた。聖書学者が言うんだ。これはその当時、似たような話というのは、ほかの宗教にもあった話で、これは実際に、そうやって天地創造がなされたという話ではなくて、その中にある教えを学ばなければならない大切な聖書の話であるというふうにいっている。だから、これを信じなかったからといって、大罪になるとかね、罪になるとかそういう話じゃない。信じたい人はどうぞ信じてください。文字通りに信じたい人は、信じても良いし、信じなかったからといって、罪になるという話ではない。でも、大切なメッセージが、この中にあるということを忘れてはいけないんですね。――そのメッセージの最たるものを、私はこのように、最近、とらえるようになりました。それは、原罪のあり方ですね。神はアダムとエバに命じていた。どの木の実を食べても良いけれど、園の中央にある木の実を取って食べてはいけない。これを食べると、死んでしまうからであると言われる。ところが、まず、悪霊はエバを誘惑する。
「神はこれを食べるなと命じたのか」と。
エバは答える。
「それを食べたら死んでしまうと神さまが言われました。」
悪霊はそれに対して、「死ぬはずがない。これを食べると神のようになる。だから神はそれを禁じたのだ。」
そう言われてみると、その実はいかにも美味しそうで、食べるに相応しいと思われたので、エバは食べてしまいました。そしてこれを、アダムにも食べさせました。それで二人は、自分たちが裸であることに気づいて、恥ずかしかったので、イチジクの葉を綴りあわせて腰に巻き、そして、罪を犯して、怖かったので、隠れていた。
そこに神が近づいてこられて、
「お前が裸であるということを誰が教えたのか。お前は私が命じて禁じておいたあの実を食べたのか」
とアダムに言った時に、アダムが、もしかして、
「申し訳ありませんでした。私はあなたの掟に背いて、あなたが禁じていたあの木の実を食べてしまいました。どうぞおゆるしください。」
といって謝ったら、神はゆるししたかも知れない。でも、アダムは何と言ったでしょう。謝っていないんですよ。何と言ったか。
「あなたが私に与えてくださったあの女が私にすすめたので、私は食べました。」悪いのはあの女です。
その女は何と言ったか。
「蛇が私にこれを食べるように誘惑したので、わたしは食べました。」悪いのは蛇です。
二人とも謝っていないんですね。ここに人間の原罪というものがあるような気がするのです。原罪。人間が自分で気がつかないぐらい自分のことを証ししたいという、この誘惑、欲望ですね。
自分のことを正当化したい。皆さん、今まで自分のことを正当化したことのない人はいないでしょう。もしかしたら、それは習性化された、ここにいるかどうかは別として、自分のことを正当化するのが習性化されてしまったような人間もいるんです、なかにはね。もういなくなってしまいましたけれども、うちの修道会にも、若い青年がかつていたことがあって、それが、ことある毎に、何か言うと「だって」。必ず「だって」をつけるんですね。「だって、あの人がこうしたから・・・」「だって、私はあの時・・・」自分のことを素直に「私が悪うございました。」と、絶対に認めない。そういうまれな人がいました。あれ以来、そういう人には出会ったことはないです。今どうしているかは知りませんけど、やっぱり「だって」の生き方をしているのでしょうね。まぁ、そこまで言わなくても、人間は自分のことを正当化したいということがあります。
ずいぶん前、東京教区のある教会で共同回心式のお手伝いに行った時に、その当時、東京大神学校のモデラトールをしていた広島教区の司祭が司式をしていました。私はゆるしの秘跡だけの手伝いをしたのですが、その司祭がミサのなかで説教を、回心についての説教をしてね、最後に「皆さんに申し上げます。皆さん、どうぞ他人の罪は告解しないでください。」と。分かりますか。「他人の罪は告解しないでください」皆さんも身に覚えのあることかどうかは知りませんけど。「あの人がこうしたから、私は罪を犯しました」これは、気がつかないですね。あの人がいなければ私は罪を犯さなかったのに、あの人がいたおかげで私は罪を犯したという告解は、珍しくないですよ。そういう話を聞く時が。これが習性になっている人もいる。だから、そういう話を聞く時に、時々、もう私が耐えきれなくてね、「あの、すいませんけど、自分の罪を告解してください。」という時もあるんですね。気がつかないぐらいに私たちは、自分のことを正当化したいという、そういう誘惑を。これを誘惑と思わないんですね。悪霊は、巧妙なやり方で私たちを、その誘惑に陥るような方法で、私たちを誘惑するんです。そして自分のことを証ししたいという、この証しから自分を解放することが出来なくて。そして私たちは、自分のことが自分で証し出来ないその苛立ちのなかで、人も自分のことを証してくれないというこの苛立ちのなかで日常生活を送り、時に悶々と悩みながら、時にストレスをためて、そして、それが、それだけではないと思いますけれども、自分の肉体の変調まで来してしまうということにさえなるという、この現実というものを気づかないでいる。
笑い話みたいになるので。私だって恥ずかしいですから、だからあまり言いたくないんですけれども、ひとつ良い例があるので。自分のことを例にしておけば罪にならないから。ある時、うちの修道院でイベントがありまして、そのイベントの時に、まぁ習慣的に、うちにはカメラマンがいまして、そしてそれが写真を撮るわけです。イベントの写真を撮って、それで、それを現像して、アルバムにして、集会所なんかに置いて。この前のものが出来ましたからどうぞご覧くださいと、置いているわけですね。それで、その時、私は、それを見ていてね、あることに気がついたんです。それは、私はその時、イベントの司会をしていたんです。それでね、皆さんそういう写真を見る時にですね、何を一番最初に探すかというと、自分がどこに写っているかと探すでしょう? 私は知っているわけですよね。自分が司会をした時だと知っているわけですよ。ところがね、最初っから最後まで、私の写真が全然写っていないんですよ。そこに。そうしたら、その写真を撮っていたのは誰だったかということが思い出されて。「あの野郎、わざと俺を撮さなかったな」。それはそれで、見終わって、そこに置いておいたわけですけれども。夕方になるまでそれを引きずっていたわけですね。気がつかないんですよ、それを引きずっているということを。夕方になって、何かモヤモヤするなぁ、何だこのモヤモヤは。何だろうと思って、朝からのことをずっと考えていたら、「あー、あれか。自分のことが証しされなかった、あのモヤモヤは、これか。それほどまでに、あんな小さなことでも、自分のことが証しされたいと思っていたのか、お前は。」と自分に言い聞かせた途端にね、自分のことが馬鹿ばかしくなってね。それで、完璧には取れなかったけれども、90%ぐらいは「あー馬鹿みたい」という思いで、自分に戻れたということがあったんですね。それ程までにして人から自分のことを証しして欲しいのかという、その証しをして欲しいという思いというものは、そんなに強いのかと。随分前の話しですけれどもね。昨日今日の話じゃないんです。もう7,8年ぐらい前の話しですけれどね。私にとっては、大切な、ひとつの学びの場でしたね、あれはね。その時から、私のなかで、この自分の証しというものに対する気づきというものが、何かにつけ、そんなに自分のことを証ししたいのかという、自分への問いかけというものが、折りに触れて、自分のなかに生まれるようになってきた。そこから、だいぶ何か楽になったような気がするんですね。
自分のことを自分で証ししてはいけないという、これはイエズスさまの言葉ですから、だからもう、繰り返し、繰り返しイエズスさまの言葉は、私のなかで想い出される。わたしが自分で自分のことを証ししようとしたなら、その証しは真実ではない。なぜならば、私は自分のことを全部自分で分かっていると思っているけれども、本当に分かっているのかと。自分のことは自分ではよく分かっていない、自分のことはよく知らない。その分からない自分が、自分で自分のことを証ししようとしたら、その証しは真実ではないということは当然なことだと。それは、自分が司祭として、やはり、修道会のなかにいて、従順という誓願のもとに修道生活をしているなかで、やはり、この従順だけでは生活したくないと、従順以外のところで、目上の許可を得るとか得ないとか、そういうことではなくて、自分のものは自分で選びたいという、この誘惑ですね。自分の時間、自分の自由、自分の働く場所、それを自分で選びたい。そこで自分の証しをしたい、自己満足を得たいという、この誘惑というものは、これは気がつかないぐらい、もうこれは、私の個人的な傾きだとは思えないのですね。人間はみんな同じだから、長い間の経験でね。
こういうことをお話した後で、今回はいないと思いますけれども、必ず、ひとりやふたり出てくるんです。あるシスターたちの年の黙想をお手伝いしていた時に、個人面談に来たひとりのシスターが、いきなり私に言ったんです。
「神父様、私のことを知っているでしょう。」
「何を言ってるんですか、知らないですよ。今回初めて会うのだから。」
「知ってるはずです。」
「なぜそういうことを言うの。」
「だって私のことを言ってる。」
私はいつも、黙想会とか説教の時は、自分を中心に、自分をネタに話をする。そうすると、98%ぐらい当るんですね。だから、ここにね、ベールをかぶっていらっしゃるシスター方が、若干名いらっしゃるけれども、私が言っていることはシスター方には当らない、とは思わないんですね。やっぱりね、自分のものは自分で選びたい。自分の場所も、働く場所も。本当はじゃなくて、出来ないけれども、本当はあそこでこの仕事がしたいんだという、その願望というものは。いつかきっと自分の好きな仕事が出来たらいいなぁという思いもあるかも知れないですね。私はね、司祭になる――なったのは1974年6月30日なんですけれども――司祭になる3か月ぐらい前に、この誘惑にあっていたんですね。自分の修道会を出ようと思っていた。自分が司祭として働く場所は、ここではないと思っていた。別のところで自分の司祭職を活かしたいと思っていた。そして、ひとりの司祭に相談したことがある。そうしたら、その司祭からいわれたその言葉が、今日まで私を縛り付けている。これからのがれることが出来ない。その司祭は言いました。ここに九州の人がいるかどうか知らないけど、その人は福岡教区の司祭でした。福岡弁で私にこう言いました。
「あんたは、自分のために神父になろうとしとりゃせんね。そうじゃなかろうが。キリストのために司祭になるっちゃろうが。いやー、どこでも良かんね。今は神父にならんね。あんたが神父になったら神父を辞めるという人は誰もいらんけん。今は神父になんなさい。」と言われて。
ガーンと頭を殴られたようでした。効いたですね。司祭になる前だったから良かったんですね。私は自分のために司祭になろうとしていたという、そのことに気づかなかったんです。自分の司祭職を自分のために使いたいと思ったんです。こういう場所ではなくて、もっと違った所で、いきいきと働いているあの司祭のように、自分の司祭職を活かしたいと思った。だから、ここを出ようと思っていた。でも、イエズスさまは私におっしゃった。私のために司祭になるのだったら、そこにいて欲しい。私があなたに仕事をあげる、そのことによって私を証しして欲しいといわれた。その誘惑から、その時以来のがれたわけじゃない。今でも、ここじゃなくて、主よ、出来ることならあっちへ連れて行ってください、こっちへ連れて行ってくださいと。うちの人間がいないから言うんですけれども。今している仕事が嫌だという事ではないんですけれども、やっぱり、時々ね。人間というのは疲れますからね。こんな仕事じゃなくて、もうちょっと自分が満足できる仕事をしたいとか、こういう仕事をしていたらもっと楽なのにとかね。男のロマンみたいにいわれる言葉があるんですけれども、私のロマンはですね、どこか田舎の教会に行ってね、海辺の教会へ行ってね、暇な時は日なが一日釣りをしてね、夜に自分が釣った魚を食べながら酒を飲む、そういう司祭生活を。私のロマンですけどね。まぁ、一生、活かされることのないロマンですね。まぁ良いじゃないですか別に。でも、イエズスさまはおっしゃる。馬鹿を言うんじゃない。お前はそこにいろと。私のために活かす司祭職は、私が選ぶ。そのための力も、私が選んであげるとイエズスさまはおっしゃる。「わたしがあなたがたを選んだ」とおっしゃっているでしょう。後は自分の好きなようにしなさいとおっしゃっているわけではないんです。そのための力も、わたしがあなたのために選んであげるから、わたしの選びに忠実であって欲しい。わたしがあなたに与えたこの十字架を、しっかりと受け取って欲しいと言われる。それが、わたしを証しすることになる。自分の証しをしたいという、その思いから解放されなさい。そうすれば、あなたはもっと楽になる。
このイエズスさまの「わたしが自分のことの証しをしたら、わたしの証しは真実ではない」という言葉を、たぶんこの人は、この言葉をもとにして、こういうことを言い出したのだろうと思われる、ひとりの女流哲学者の言葉があります。わたしの大好きな言葉です。それは、30代で亡くなった、ユダヤ人でありながらフランスで生活した、シモーヌ・ヴェイュというひとりの哲学者の言葉です。皆さんも、このシモーヌ・ヴェイユという名前だけをお聞きになったことがあるかも知れませんが、私はこの人が書いた本の中で、一節、この言葉だけが心に残っている。それは、
「私のことを考えますのは、私の仕事ではありません。私の仕事は、神さまのことを考えることです。私のことは神さまが考えてくださいます。」
この言葉に最初に出会った時、私は何の気なしに「へぇー」と思って、それから忘れることが出来なかったんですけど、だいぶ経ってから、あの言葉はどこにあったんだろうかと、その言葉の書いてある本を探し出すのにひと苦労しました。でも、最近、執念でやっと見つけました。ああ、ここにあったと。それは、ある司祭に対して書いた手紙の中の一節だったんですね。「私のことを考えますのは、私の仕事ではありません。私の仕事は、神さまのことを考えることです。私のことは神さまが考えてくださいます。」まさにこの、イエスさまがおっしゃったヨハネ福音書5章31節に書かれてある
「わたしのことを証しするのは、わたしの仕事ではない。わたしの仕事は、父のことを証しすることである。わたしのことは、聖霊が証ししてくださる。」
ご自分の証しはすべて、イエズスさまは聖霊に委ねられた。だからイエズスさまは、最後の最後まで自由だったのですね。人間としては、出来ることならこの杯をわたしから遠ざけてくださいと祈られました。あのゲッセマネの園で。十字架を受けて欲しいと御父がイエズスさまにお求めになった、あの十字架を。イエズスさまは、出来ることなら遠ざけてくださいと言われたけれども、でもわたしの思いではなくて、あなたの思いがこのわたしを通して、わたしのなかで実現されますようにと言って、ご自分の証しではなくて、御父の証しのために十字架を受け入れられた。それが私たちの救いの源となった。イエズスさまは、最後の最後まで、この誘惑に遭われたということですね。あのヨハネ福音書のなかで、途中でも、誘惑と覚しき、親戚の者たちの不信仰という言葉で表されている箇所があります。それは、ヨハネ福音書7章3節−4節に出てくるんです。
『イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」』
兄弟たちがイエズスさまに言ったとヨハネは記しています。こんなことをしているからには、もっと中央にでて、あなたのしていることをみんなに知らせなさい。中央に出たいと考えている人が、こんなところでこんなことをしている人はいない。それは誘惑ですね。兄弟たちの誘惑ですね。もっと自分のことを人々の間で証ししなさいという誘惑ですね。イエズスさまはこれを恐れられた。イエズスさまの恐れですね、これは。好き嫌いの話ではないんですね。私たちも、このイエズスさまの恐れを、自分の恐れにしなければならない。自分のことを自分で証ししようとしているのではないか。そのような証しが、絶対に真実であろうはずがない、と。
あの、勘違いしないで欲しいことを。後で質問の時間は無いので。質問したかったのにと、疑問を持たれたままお帰りになったら困るので、あらかじめ疑問に答えておきますね。
そうしたら、世間に出て生活するのに、自分の証しをしなかったら、生活できないじゃないですかと。会社に勤めている人は、やはり、自分の業績を、実績を上に示さなきゃ、証ししなきゃ給料をもらえないわけですからね。私は自分の証しはいたしませんと、やっていることを、上に密かにやっていたら、もうお前は役に立たないから辞めてくれといわれると。そういう話をしているわけじゃないんですね。世間で生活していく話と、そして、福音を生きる話とは、これは別の話です。ですから、世間で生きていく知恵でもって福音を生きようとしたら、これは絶対に無理です。絶対に駄目ですね。でも、福音の知恵によって、私たちは自分の生活に帰っていく時に、この福音の知恵によって、世間で生活していくなかで、解放されるということですね。自分のことを証しする――それは実績を示すという証しではなくて、自分のことを正当化したい、自分のことをもっと良く他人に、偽善的な手段を使ってでも、他人に自分のことを良く見せたいという――その無駄な努力から解放されるということが、どれだけ自分が楽になることかということ。私たちは、この「証し」ということを、両方いっぺんにすることは出来ない。イエズスさまは、神と富とに仕えることは出来ないと、イエズスさまはおっしゃいましたけれども、私たちは、キリストと自分を同時に証しすることは出来ない。キリストのことを証ししたいと思うならば、自分の証しを捨てなければならない。そうすれば、恵みとして、結果として、キリストの証しにこれが繋がっていく。キリストの証しをしたいと思いながら、自分の証しも同時にすることは出来ない。自分の証しをして、これはキリストの証しに繋がるはずですということは、あり得ないんですね。
これは、私が修道生活をしていて、司祭職をしていて、特に感じることですね。司祭という、この役職というのは誘惑の多い仕事です。やっぱりね。これは、尊敬されるということが習性になっていますからね。ある時、小さな子供たちのキャンプで自己紹介をしたんです。私が「赤波江神父といいます。」と言った。そうしたら、小学校の4年生ぐらいの子がね、ガキがね、「おーい、赤波江神父。」と。私が自己紹介したとおりに、私のことを呼びやがってね。私は「神父様」と呼ばれる習性が身についてますからね、「神父」と、呼び捨てにされたら、カチンとくるわけですね。だからこの、尊敬されるというのが、習性になっているというのはね、これはね、当然のことみたいな、そういうふうになってしまっているんでね、そうじゃない扱いをされると、自分の証しが、そこで成立できないという、そういうふうに感じることが時々あるんですね。やっぱり、自分のこの仕事を使って、自分のことを証ししたいという、密かな、気がつかない誘惑というものがあるんですね。こうやって説教もしていますが、私はね、皆さん信じないかも知れないけど、ウソーってみんなが言うのですけれども、私は子どもの時から、あんまり喋ることの得意じゃない人間だったんですね。私に話をさせるというのは至難の業だと親戚の者が言うぐらいに、私はあんまり喋らない人間で、先生から指名されても、あんまりハッキリとものを言わない、そういう、昔の姿があったわけです。これは、司祭になって、自分で司祭としてのひとつのカリスマだろうと思うんですけれども、この、みことばについて話をするというのが、自分に与えられたひとつのカリスマだろうというふうに感じています。それを感謝しています。ですから、これが自分の証しになりませんようにと、ひたすらこれは願うだけですね。あの人は説教が上手だとか、良い話をするとか、面白いとか、分り易いとか、そういう話を時々、聞くことがないわけでもないのですけれども、でも、それが自分の人となりを決めてしまうような、そういうことにならないように私をお護りくださいと、これは、祈るほかないんですよ。自分の証しを自分ですることがないようにとね。気がつかないこの誘惑から自分を解放してください。そして、自分の証しはすべて聖霊にお任せします。あなたがなさる証しだけが真実であるということを、わたしに悟らせてくださいと、それはもう、祈るよりほかない。
皆さん、祈りの、本当の大切な意味というのは、そういうところにある。主よ、わたしに本当の十字架を担わせてください。あなたの本当の証し人にしてください。わたしが自分のことを証しするのではなくて、あなたのことを証しすることによって、あなたが、わたしの気づかない所で、あなたがお望みになる証しを、私にしてください、ということを。証しを望むということは、そのこと自体は、悪いことではないと思います。それを自分でやったらおかしくなるということですね。
皆さん、どうぞ、キリストの証し人に。それは、特別なことをすることではないのですね。私たちは、イエズスさまがおっしゃるいろいろなことを、それを直接にやろうと思ったら、これはもう至難の業です。みんな難しいことばっかりです。
「互いに愛し合いなさい。」
そんな難しいことを、良く平気で言うよなぁとね。愛そうと思って愛せるということはないわけです。愛さなければならないと思っているのに愛せないという思いのなかに、みんな悩んでいるわけです。自分の身内さえもね、親でも、子どもでも、配偶者でも、思うとおりに愛せたら、こんなに楽なことはない。けれどもイエズスさまは、この難しいことを、「互いに愛し合いなさい」と、簡単に言葉で片付けてしまわれる。
「へりくだった者になりなさい。」
へりくだった者になるって、こんなに難しいことはないですよ、皆さん。ね、人間というものは、だいたい高ぶるように出来ているんですからね。そりゃぁ、高ぶるというのは、高くもないのに高いふりをするということなんですけれども、一生懸命に高ぶってね、頑張って高ぶって、昂揚して、自分を盛り上げてね、そして人間は頑張れるわけでしょう? 低いままでいい。低いままで良いとなると、成長も何もないわけですよ。
ある時、ひとりの猟師が、農家の庭の前を通りました。ところがその庭で、ヒヨコが餌をついばんでいました。猟師がそのヒヨコの群れを見ていると、何とその中に、鷲の子どもがヒヨコと一緒に餌をついばんでいる。猟師は百姓に聞きました。
「どうしてお前はこの鷲の雛をヒヨコと一緒に育てているんだ」
そうしたら、百姓は言いました。
「なにこいつは、自分が鷲の子だということは知らんですよ」
「そんなことはない。」
と言って、猟師はその羽の大きくなり始めた鷲の子を捕まえて腕に乗せ、山を登って行った。山の下から風が湧き上がってくる度に、鷲の子は、羽をバタバタとひろげて飛ぶ仕草を始めた。そして、山の頂に着き、猟師がその腕を大空に向かって伸ばした時に、鷲の子は大風を下から受けて、大空に飛び立っていったと。これはひとつの逸話ですけれどね、人間というものは、下ばかりをついばんで、泥ばっかり、下ばっかり見ながら生きていてはいけないんです。羽をはばたかせてね。やっぱり、高ぶらなきゃいけないです。高ぶるの反対は何か。それは、「低ぶる」ということなんです。低ぶるのは簡単なんですよ。皆さん、低ぶったことがあるでしょう? 低くもないのに低ぶってね。心の中では「なにくそ」と思っているのに低ぶって。イエイエ、私なんかは・・・。それを謙遜だと思ったら大間違い。それは謙遜ではない。「低ぶり」です。低ぶりはね、隠れ傲慢というんですよ。傲慢なところを見せたくないから、低ぶった姿を見せているだけで。これは、傲慢よりも始末が悪いです。本当の傲慢ですね、これは。イエズスさまがおっしゃる謙遜というのは、低ぶりではないんです。イエズスさまがおっしゃる愛というのは、一体何か。それは、十字架を担うものだけが。今朝のミサの最後に申し上げましたね。「十字架の道を行く者の中に、人の知恵をはるかに超える神の愛がかがやき出ます。」十字架を担う者だけが、本当の愛を生み出すことが出来る。十字架を担っている姿が、本当の謙遜の姿だということです。十字架を担うことのないのは、ただの低ぶりであって、これは謙遜ではない。十字架というものを考えないで、謙遜ということを考えることは出来ない。みんなお恵みです。謙遜も恵みです。愛も恵みです。そして、証しも恵みです。自分の証しを捨てることによって、キリストの証しを、恵みとしていただくことが出来る。
この殉教者たちは、証しをしようと思ってしたわけじゃない。キリストの証しをしようと思ってしたわけじゃない。全部、自分の証しを捨てて、そして、十字架を受けた。これが、私たちの信仰の祖先となった、大きな模範となった。私たちの信仰はここにある。十字架を除外した信仰はあり得ない。殉教者の模範は、十字架にあると。
高山右近に聞いた話は、私の勝手な想像です。「そんなに聖人になりたいですか」「全然」そんなこと言ったら、大塚司教に怒られそうですから、ここだけの話にしておいてくださいね。
証しして欲しい。あなたも証しして欲しい。その証しを私たちはあなたたちに残したんですと、殉教者たちは、私たちに叫んでいる。この叫びに耳を傾けなければならない。キリストの証し人にしてください。これは私たちが解放されるということであるわけですからね。やってみてください。自分の証しから解放されるというのは、こんなに楽なことかということを。それが、キリストの証しに繋がるならば。これは信仰の問題ですね。ただ、その根底に、中心に、十字架をいつも見つめるという、そのことを忘れないように。
講演になったか、講話になったか、私の単なるしゃべりになったか。その辺りのことは分かりませんけれども、今日の、このお祝いのはなむけの言葉に出来ればと願っています。
どうも。 |
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2014年2月2日
『日本二十六聖人殉教者祭』ミサ
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幸田和生司教のミサ中説教 |
2014年2月2日(日)、本所教会
福音朗読 マタイ28・16-20
こういう詩をご存知でしょうか。
「いのちが一番大切だと思っていたころ、
生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがあると知った日、
生きているのが嬉しかった。」
星野富弘さんの詩です。星野さんは中学校の体育の先生でしたが、体操の事故で頸椎を損傷し、首から下の体の自由が利かなくなりました。たいへんな苦しみの中でキリスト教の信仰を得るようになり、口にくわえたペンで美しい詩と絵を書いておられる方です。この詩についてわたしはうまく解説することができません。星野さんにとって「いのちより大切なもの」とは何か、きちんと説明することはできません。でも、ずっと気になり、深い所で共感を感じてきました。そして、今回、本所教会での日本26聖人殉教者のミサを頼まれてから、何度も何度もこの詩の言葉が頭に浮かんできています。
キリシタン殉教者たちは確かに、「いのちより大切なものがある」と知っていました。だからこそ喜んでいのちを捧げたのです。当時の日本人、戦国時代の武士たちも皆、自分のいのちより大切なものがある、と考えていたでしょう。それは自分自身の名誉であったり、あるいは自分の主君であったりしました。しかし、キリシタン信者たちが知った「いのちより大切なもの」はそんなものではありませんでした。
キリシタンたちの信仰では、いのちは神から来るものでした。人のいのちは神によって生かされたものであり、この世のいのちよりも大切なものは、この神とのつながりでした。いのちというものは生物学的ないのち、医学的な生命がすべてではない。いのちとは、この世での誕生に始まり、肉体の死で終わってしまうようなものではないのです。いのちは永遠の神のもとから来て、永遠の神のもとへと帰っていくものでした。いのちが神のもとから来たものだから、どんないのちもかけがえのないいのちとして大切にしなければならない。そしてどんないのちも最終的に神にお返ししていかなければならないものですから、肉体の死を超えて神に信頼と希望を置いて生きることができる。これがキリスト教の信仰です。
それは単なる言葉でしょうか?1つの考え方に過ぎないでしょうか?
今日記念しているキリシタン殉教者たちは、その信仰、希望、愛を身をもって生き抜いた人々です。殉教者たちの生き方、死に方は強烈な問いかけをもって、わたしたちに問いかけています。あなたは本気でいのちよりも大切なものがあることを信じていますか?
わたしたちの社会では、「健康が一番大切、いのちが一番大切」と当たり前のように言われています。もちろん健康は大切です。この世のいのちも大切です。でも本当にそれが一番大切ですか? そういう考えで、いのちは本当に輝いていますか? そういう考えで人間一人一人が本当に尊重されていますか? 人間が人間らしく生きることができていますか?
みんな喜びをもって生きていますか?
殉教者たちはそのことを問いかけています。
いのちより大切なものがある。しかしそれは何でもいいわけではありません。自分のいのちより会社のほうが大切。それはおかしいでしょう。自分のいのちより国家のほうが大切、というのもまかり間違えばとんでもないことになります。宗教的な確信のために、人のいのちを粗末にするようなテロリズムは絶対に間違っています。そういうものに対しては、断固としてノーといい、本当にいのちが大切なのだと言い続けなければなりません。沖縄の人の言う「ぬちどぅ宝(いのちが宝)」という言葉はその意味で本当に大切な言葉です。
しかし、それでもなお「いのちより大切なものがある」。これがわたしたちの信仰です。わたしたちキリスト信者の言葉で言えば、肉体のいのちよりも大切なものは「永遠のいのち」であると言ってもいいかもしれませんし、別な言葉で言えば、いのちの源であり与え主である神とのつながり、そして人と人との愛のつながりだと言うこともできると思います。
あなたにとっていのちより大切なものはなんですか。それは今日の殉教者からわたしたち一人一人に向けられた問いかけです。わたしたち一人一人はその問いかけにどう答えるでしょうか。
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幸田和生司教の講演「キリストを誇りとする信仰」 |
2014年2月2日(日)、本所教会
1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を出してから10年後の1597年、日本二十六聖人の殉教がありました。そして、1600年代になって徳川幕府が成立し、迫害が一番激しくなって行くのは、1614年に家康が全国的な禁教令を出したあたりからだと思います。その日本二十六聖人から始まる迫害と殉教の歴史が、私達にとってとても強い印象があります。その中でキリシタン殉教者達が英雄的なあかしを立てたことを素晴らしいと思います。ただ、それ以前に、その日本二十六聖人の殉教までの日本のキリシタンの歴史は、フランシスコ・ザビエルから始まる50年ぐらいの歴史があるわけです。その間に本当にキリシタンの教会が成熟した信仰を生きていた、ということがあって、迫害時代にその迫害に打ち勝つことが出来たのだと私は思っています。
私自身は、東京で成人洗礼を受けた者です。大学生の時に洗礼を受けました。だから、本当の事を言って、実はキリシタンと自分とは何の関係もないと思っていました。私は東京でキリスト教と全然関係のない家庭に育ち、大学の時にたまたまキリスト教に出会い、おもに聖書を通してイエス様の事を知り、洗礼を受けて、キリストに従って歩んで行こうと思って神学校に入り、司祭になったのです。だから、キリシタンは関係ない、本当のこと言うとそう思っていました。2005年に東京教区の補佐司教になりました。それは日本の司教団の一員ということにもなるわけですが、ちょうどその頃から、188人の殉教者の列福のことがとても大きな話題になっていました。私も一応、司教団の端くれですから、知らん顔も出来なくなってしまって、「これはまずい、日本のキリシタン時代のことをちょっと勉強しなければいけないんじゃないか。188人の殉教者のことを勉強しなければいけないじゃないか」そう思って初めて真面目に勉強し始めました。
私が日本のキリシタン時代のことを学ぶ中で特に関心を持ったのは、「ルイス・デ・アルメイダ」という人のことです。それで今日は、この「アルメイダ」の話をしようと思いました。最初にも言いましたけれども、1597年の日本二十六聖人の殉教から始まる迫害の歴史の前に、どういう福音を日本人は受け取ったのか、本当に素晴らしいものを受け取っていたからこそ、どんな迫害、困難の中でも、その信仰を守り通せたのだということを一緒に感じることができたら、と思います。
でも、ご存じですか、皆さん。ルイス・デ・アルメイダのことを聞いたことのある方、ちょっと手を挙げて下さい。あ、聞いたことのない方も大勢いらっしゃいますね。<黒板にアルメイダの像の写真を貼りだす> 良かったです。アルメイダの事を聞いたことがない方が結構いらっしゃるので、ここに来た甲斐があります。アルメイダの顔を現代の人は誰も見たことはない訳ですけれど、アルメイダの像は幾つかあります。この写真のものが一番有名かも知れません。これは舟越保武という彫刻家が作ったレリーフで、天草の殉教公園に置くために作られたものです。これ以外にもいろいろあります。私はあちこち見に行きました。一つは大分市の郊外に「アルメイダ病院」という病院がありますが、このアルメイダ病院のロビーにも像があります。それから、島原教会の庭にもアルメイダの像があります。長崎教区の古巣馨神父が島原教会を担当していた時に作られ、設置したものです。そういうわけですから、アルメイダのことは、全然忘れられている訳ではないですけれども、一方で、それほど知られていない面もあるかも知れませんのでお話したいと思います。
キリシタン時代の話ですから、16世紀ということになりますが、15世紀ぐらいから大航海時代が始まります。ヨーロッパの人達が船に乗って世界中へ出て行ったのが大航海時代です。そして、16世紀にイエズス会の宣教活動も始まって、イエズス会の宣教師達もアメリカ大陸やアジアに出て行きます。その中で、1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に来てキリスト教を伝えることになりました。ザビエル自身はそんなに長く日本に居た訳ではありません。日本に滞在したのは2年くらいでしょうか。ザビエルは日本の事を聞いていて、日本に来た時に、とにかく京都へ行って、天皇に会って、天皇から布教の許可を貰えば、日本の布教はうまく進むのではないか、そう考えたようで、京都まで行きました。ところが、当時の京都は、室町時代の終わりで荒れ果てていて、天皇の権威は失墜していたし、足利将軍の権威も失墜していた。これではどうにもならないということで、ザビエルは戻って行って、一旦日本を離れました。中国に向かいますが、中国にも入れず、中国の手前の島で亡くなるわけです。フランシスコ・ザビエルと一緒に日本に来て、ザビエルが去った後、日本の宣教を任されたのは、コスメ・デ・トーレスという神父でした。このコスメ・デ・トーレス神父が日本の宣教活動を続けていたました。最初、中心は山口でした。それから、大友宗麟の豊後府内。今の大分県大分市に中心が移って行きました。そういう中でアルメイダという人は日本にやって来ることになります。
アルメイダは生まれた年ははっきりしません。1525年くらいにポルドガルのリスボンで生まれました。当時、大航海時代で、おもに活躍したのはポルトガルとスペインというイベリア半島の二つの国でした。そのイベリア半島は、長い間イスラム教徒の支配下にあったわけですが、この時代の少し前にキリスト教徒が支配権を取り戻した。そういう背景があります。アルメイダは実はずっと昔からキリスト教徒だった家系ではないんです。元々はユダヤ教の家系でした。イベリア半島がキリスト教徒の支配下になって、ポルトガルやスペインがキリスト教になった時に改宗した家系なんです。なので、ちょっと微妙な点があります。そういう面では。当たり前の様にずっとキリスト教を信じてきた家系ではなくて、途中から改宗した人の家系ということで、もしかしたら、そのことがアルメイダの人生に何かの影響があるかも知れません。実は、日本でアルメイダの小説が二つくらい書かれています。一応、私も読みました。でも、お薦めしません。ちょっとフィクションが多いし・・・例えば、改宗者の家系だということでアルメイダは他のキリスト教徒からはちょっと白い眼で見られていたとか、そのような想像が一杯書いてある小説もあるのであまりお薦めしません。
まあ、その家系のことがどこまで大切か分かりません。確かなことは、アルメイダが若い頃に、ポルトガル国王から医師の免許を貰っていたこと。ちゃんと勉強して医師の資格をきちっと得ていたんですね。でも、医師にはならずに、アルメイダは若くして貿易商になりました。当時一番流行っていた職業だったのでしょう。世界中へ出かけて行って、貿易をしてお金儲けをするのが、すごく流行っていたんです。特にアジア。大昔からシルクロードを通して、アジアとヨーロッパの間には交流がありました。でもそれは、結構危険に満ちた道でした。大航海時代に開発されたルートは、アフリカ大陸の南端の喜望峰を回って船でアジアへ出て行くルートでした。遠回りのようですが、当時は船の旅の方が安全だったし、たくさんの物が運べて貿易にとっては都合が良かった。ヨーロッパのポルトガルなどの人々は、船に乗って、喜望峰を回って、インドのゴア、マラッカ海峡、そしてマカオ辺りまで来て盛んにいろいろな物の貿易をしてお金儲けをしていたのです。アルメイダはそういう時流に乗ってマカオまで来て、そして更に貿易のために日本までやって来ました。フランシスコ・ザビエルに遅れること3年くらいですね。1552年に初めて日本に来たといわれています。そして、彼は日本とマカオとの間で貿易を行って大成功したようです。もう一生遊んで暮らせるくらいのお金持ちになった。当時の貿易商は、勿論、船で移動するわけですからすごく危険がありますけれど、成功すれば莫大の富が得られる若者憧れの商売でした。彼らの理想は、ともかく一生遊んで暮らせるようなお金を儲けたら、どこかの島に行ってきれいな女性を侍らせて遊んで暮らすことだった、そうイメージがあったようです。そういう時代にアルメイダは日本に来ました。
ところが日本でアルメイダがしたことはそんなこととは全然違うことでした。1555年にアルメイダがしたこと、それは豊後府内(今の大分市)に乳児院を作るということでした。アルメイダは一軒の家を手に入れて、そこに乳母になる女性を雇い入れ、そして牛を飼って、そこで赤ちゃんを育てようとしたんですね。アルメイダが日本で見たものは、今からすればとんでもないことですけれども、当時の日本の貧しい人達、農民達が、赤ん坊が生まれた時に「どうせこの子はちゃんと育てることができない、だったら、物心がついてから苦しむよりは、もう赤ちゃんの間に、もうお返ししてしまおう」という、嬰児殺しとか、間引きとかですね、そういうことが行われていた。私が読んだのでは、潮が引いた時に赤ちゃんを海辺に置き去りにして、潮が満ちて来ると赤ちゃんは溺れて死んでしまう、そういうようなことが、結構多く行われていたそうです。アルメイダはそれを見て、こんなことがあってはいけない、その命を何とか救わなければいけないと思って乳児院を作ったのです。アルメイダが考えたことは分かりますよね。牛を飼って、牛のミルクで人間の赤ちゃんを育てよう、親から捨てられた赤ちゃんを育てようと思ったのです。このアルメイダの乳児院がどうなったか。成功したかどうか、実は記録がありません。ある人はあまりうまくいかなかっただろうと考えています。当時の日本人の感覚では、動物(獣)の乳で人間の赤ちゃんを育てるなんてとんでもない、考えられないことだったので、アルメイダの乳児院に子供を任せるような人は居なかったかも知れないとも言われています。その乳児院がどうなったか、本当のことは分かりません。
アルメイダは同じ年1555年に、貿易商を辞めてイエズス会に入会しようとします。イエズス会といったって、日本ではコスメ・デ・トーレス神父のほかに、そんなに沢山は居ないです。でも、アルメイダはその日本でイエズス会に入会しようとしました。彼は日本に初めて来た時、27歳くらいだったのですが、30歳近くになって、自分の人生これからどう生きていくか相当考えたようです。本当にこのまま富を求めて貿易商の仕事をするのか、それとも全然違う道に行くのか、すごく悩んだ末に、彼はコスメ・デ・ドーレス神父の指導を受けてイエズス会に入会を志願することになりました。
このアルメイダに影響を与えたのは船の中で出会った修道士たちの姿だったと思われます。当時の宣教師達がどうやって移動していたかというと貿易船に乗せて貰っていたんですね。当時は客船がないですから、ヨーロッパからアジアに来るには貿易の船に乗せてもらっていた。船の中で修道士達は何をしていたかというと、おもに病人の世話をしていたのです。船の中で病人が出た時に、丁寧にお世話をしていた修道士たちの姿を見ていて、アルメイダはやっぱり何か感じるものがあった。「自分の生き方は違うんじゃないか、この人達の生き方の方が本当なんじゃないか」多分そういう影響を受けていたみたいです。それで、何度か日本に来るうちに乳児院も始めるし、自分自身もイエズス会に入って修道士になろうという決意を固めていったようです。
でも、アルメイダは簡単に入会を許されなかったと言われています。当時のイメージでは、貿易商というのは、お金のことしか考えていないような奴と思われていました。その人が突然「修道士になりたい」と言ったって、「はい、どうぞ」とは言えない。コスメ・デ・トーレス神父は非常に厳しい修練をアルメイダに科して、アルメイダはそれをきちっと果たしてからイエズス会への入会を許されたそうです。それが1555年の終りか1556年初めくらいか。そして、1556年になるとアルメイダはコスメ・デ・トーレス神父と一緒に、あるいはコスメ・デ・トーレス神父の理解を得て病院を作ります。大分(豊後府内)でのことです。この病院は日本で初めて西洋医学に基づいて、診察・治療を行う病院でした。大分の県庁の前の通りで、すごく中央分離帯が広くて、まん中が公園になっているところがあります。大分に行かれたら是非行ってみてください。ここにはいろんな彫刻や碑があります。その一つはさっきお話しした牛乳と育児院の発祥の碑、アルメイダの乳児院のことがレリーフになって描かれています。他には医師としてアルメイダが病人を診ている像があります。そのようにアルメイダの病院が記念されています。
豊後府内に作ったアルメイダの病院は「府内病院」と言われていますが、この病院は大成功しました。この病院には二つの特徴がありました。一つは、かなり初めから内科と外科の一般病棟とともにハンセン病の病棟があったことです。ハンセン病の人達は、当時の日本では全く見捨てられ、誰も世話をしなかった。皆から遠ざけられていた。そういう人達をアルメイダは大切にお世話しようとしました。そのためにハンセン病の病棟を作ったのです。もう一つのこの病院の特徴は、診察・治療が一切無料だったことです。現代人はエッ?と思うかもしれませんが。勿論それはアルメイダが巨額の富を持って、それをイエズス会に寄付して入会したから出来たことでしょう。その病院のために使えるお金があったのです。でも、このことはとても大きなことでした。それまでの日本にもお医者さんはいました。勿論漢方医達でしょうけれども、その人達はお金持ちの人達しかかかることの出来ないお医者さんでした。貧しい人が医者にかかるなんて考えられなかった。でもアルメイダの病院はタダで、どんな貧しい人でも治療を受けることができた。そういう面でとても特徴的な病院でした。そして、いろいろな記録を見ると、アルメイダ自身がどうも天才的な外科医だったようです。天才的といっても、当時、ヨーロッパの医学の知識や技術を持っている人が誰もいなかった日本で、戦国時代ですから、沢山の怪我人などが居た中で、アルメイダは日本では考えられなかったような外科手術をどんどん成功させて行って、それがたいへん評判になります。また、日本で知られていなかった薬をアルメイダはいろいろな外国から取り寄ることができました。そういうことがあってこの府内病院というのはものすごい成功をしたと言われています。そして、その時代に豊後府内で1年間に何千人という人が洗礼を受けたという記録があります。勿論、病気を治してもらって良かったと思う人もいたかも知れません。しかし、やはりアルメイダの病院の活動を通して本当に大切なキリスト教のメッセージが伝わったということが大きなことだったと思います。本当に、どんな人も、どんな貧しい人でも、どんな病人でも神様の子どもであって、だからどんな人の命も、かけがえのない命なんだと。それを大切にして行くのだというキリスト教のメッセージが、言葉ではなくて、病院の活動を通して当時の日本人に伝わって行った。さっきも言いましたが戦国時代です。人の命なんて本当に軽々しくしか見られてなかった。そういう社会の中で本当に命が大切、人間が大切なんだというメッセージが伝わって行った。それがすごく大きなことだったと思います。アルメイダは、自分一人では病院をやることができませんから、日本人の医師を養成しようとしました。既に漢方のお医者さんになっている人の協力も得ながら、日本人の医師を育てて行こうとしました。それから、病院の運営をするためにキリシタンの信徒の組織を作りました。それが、「ミゼリコルディアの組」というものです。信徒の中で特に貧しい人や病人を助けるということを目標にしたグループを作って、そこに病院の運営を委ねました。このアルメイダの病院はたいへん成功したというか、本当に素晴らしいものとして日本人からも受け入れられたのです。
ところが、アルメイダ自身はずっと病院の仕事を続けることができませんでした。ある時から病院を離れることになります。そして純粋に宣教師としての働きをして行くようになります。何故かというと、少し分かりにくいかもしれませんが、ローマのほうから神父や修道士は医療に携わってはいけないと通達が来るんですね。これは、今の私達には分かりにくいですけれど、医者は人を救うとは限らないと考えられていたようです。医者は勿論、人を救うこともあるんですけれども、場合によっては人を殺してしまうこともある。それが神父や修道士に相応しくない職業だと考えられて、ローマから禁じられたわけです。それでアルメイダは肉体の病気を癒す医師としての働きを辞めて、もっぱら魂の救いのために宣教師として働くようになりました。彼は修道士でしたけれど、宣教師として働きました。
アルメイダについての記録の多くは、ルイス・フロイスの『日本史』という本の中で出てきます。アルメイダがどんな人だったかは分かりませんが、当時の日本人から見て、何か信頼できる人、素晴らしい人だと感じさせるような人だったようです。それで日本の宣教の責任者だったコスメ・デ・トーレス神父は、どこか新しい宣教の可能性のある場所が見つかると、真っ先にアルメイダを派遣しました。どこか困難のある場所があると、そこにアルメイダを派遣していくのです。そしてアルメイダは次々とそこにキリスト教の種を蒔き、教会を作って行きます。彼が行った場所、特に有名な場所は、一つは島原半島ですね。島原半島はキリスト教が本当に栄えた場所です。最初にそこを切り開いたのはアルメイダと言われています。それから、長崎。長崎の街は、やはりアルメイダが行って、そこからキリスト教が始まりました。
ルイス・フロイスによれば、アルメイダは最も良く働いた宣教師だったようです。しかし、彼は病気がちで、あまり身体は丈夫ではなかったのです。それにも拘わらずコスメ・デ・トーレス神父から派遣されて、どこへでも出かけて行って、そこで、そこの人達と対話をし、交渉をし、キリスト教の布教の許可を得て、そして、教会を作って、とたいへんな働きをしました。そうやって彼はイルマン(修道士)、宣教師として働いていました。
1579年ですが、ヴァリニャーノ神父が日本に来ます。この人はイエズス会の「巡察師」と言われています。ローマのイエズス会総長の代理、アジアの中心はインドのゴアでしたから、そこから派遣されて、色んな宣教地を回って指導する役割、それが巡察師です。ヴァリニャーノはイタリア人でした。当時のアジアで宣教していた宣教師達は、ポルトガル人やスペイン人が多かったのです。でもポルトガル人とスペイン人の仲はあんまり良くなかったようです。それで、いろいろな調整のために、イタリア人のヴァリニャーノ神父が選ばれて、本部から送られて来たのかもしれません。
この人は来日してすぐ、島原半島の口之津に、日本で働いていた宣教師達を集め、「口之津会議」を行ないます。そして、その当時、日本の宣教活動の責任者だったカブラル神父を解任します。ヴァリニャーノ神父はその時の日本の宣教のやり方は見て、大胆な改革をします。一番の問題は何だったかというと、当時の日本の宣教の責任者だったカブラル神父がアジア人に対してすごい偏見があったということ。「アジア人は信用できない、だから、アジア人を神父にはしない」という感じでやっていました。ヴァリニャーノ神父はそれをガラリと変えました。日本の教会はどんどん発展している。それなのに神父がこれだけしかいない。余りにも少ない。だから、将来のことを考えたら日本人の司祭を作って行かなくてはいけないと考えて、大胆な改革をします。それで、1580年、来日した次の年にはもう、有馬にセミナリヨを開校するのです。日本人の優秀な少年達を集めて、将来神父になれるように、教育を始めました。
この有馬のセミナリヨの第一期生の中に日本二十六聖人の一人、パウロ三木もいました。皆さんは、日本人最初の司祭って知っていますか。それはセバスチャン木村という人です。この人は福者になっています。殉教して205福者の一人として列福されている方です。このセバスチャン木村が神父に叙階されるのは1601年のことです。1597年の二十六聖人の殉教の時、日本には司教がいました。第二代の日本の司教マルティンス司教は、任命されたけれど、なかなか日本に来れなかったのですが、やっと日本に来たばかりでした。実際に司祭叙階を初めて行うのは次のセルケイら司教で、1601年のことなんです。二十六聖人のひとりパウロ三木は修道士のままでした。多分彼はもっと生きていれば日本人最初の司祭になったかも知れません。これは余談でした。
とにかく、ヴァリニャーノ神父は日本人の司祭を育てようとしました。そもそもフランシスコ・ザビエルは日本人を非常に高く評価して、将来、日本人の司祭を養成すべきだと考えていたようですが、それを実行したのがヴァリニャーノ神父だったと言えると思います。
そして、ヴァリニャーノ神父は1582年に天正少年遣欧使節を送りました。セミナリヨの中から優秀な若者を選んで、その人達をヨーロッパに連れて行こうとしたのです。例えば中浦ジュリアンですね。ローマまで行った四人の天正少年使節は有名ですね。日本の教科書にも出てくると思いますが、でも、使節は四人だけが行ったのではありません。他にも行った人がいて、他の人たちはスペインで印刷術を学んで帰ってきました。それは後々すごい影響をもたらしました。日本にヨーロッパの印刷技術を持って帰ってくることになったからです。まぁ、それはともかく、この天正少年使節は当時13歳、14歳のセミナリヨの、今で言えば小神学生の人達でした。彼らをヨーロッパに、ローマに連れて行って、ヨーロッパに日本の事を紹介する。そして、彼らにヨーロッパの事を学んできてもらう、そういうことを企画したのも、このヴァリニャーノ神父です。そのヴァリニャーノ神父が切実に考えていた事は、日本にあまりにも司祭が少ないということでした。だから、今すぐにでも司祭になれる人がいたら司祭にしようと考えて、何人かの人を選んでマカオに送ります。
司教がいないと司祭は作れないのですね。司教しか司祭に叙階させることができず、ヴァリニャーノが最初に日本に来たとき、まだ日本に司教がいませんでしたから、誰かがマカオまで行って、そこの司教から叙階を受けて、日本に神父として戻ってくる必要があったのです。その時に選ばれた一人がアルメイダでした。アルメイダはそれまで誰よりも良く働いてきたけれども、司祭になるチャンスがなかったので、ずっと修道士のままでした。1580年、アルメイダは55歳になっていましたが、マカオに行って司祭叙階を受けて日本に帰って来ます。何かで読んだんですけど、アルメイダは宣教師として一生懸命働いて非常に功績が大きかったので、そのご褒美で司祭にしてもらったみたいに書いてありましたが、そうではないんです。本当に日本の教会がどうしても司祭を必要としていて、その準備が十分出来ていると思われたアルメイダがマカオで司祭叙階をされて帰って来たということです。彼は日本に戻って天草の教会の責任者になります。そして、1583年に天草で58歳くらいで亡くなりました。アルメイダの最期についてもルイス・フロイスが記録しています。彼を慕う貧しい人達が大勢集まって来て、その中でアルメイダは皆に見守られながら、息を引き取った、と伝えられています。
キリシタン時代の初期のことです。まだ秀吉のバテレン追放令も出る前の時代です。でもアルメイダという人は本当に大きな働きをしたと思います。そして、働きをしたというだけではなくて、アルメイダが伝えたメッセージ、「神様は慈しみ深い方であって、人間は誰ひとり、どんな人も例外なく神の子供である」ということを、「だから私達はお互いに兄弟姉妹として大切にしあわなければいけない」ということ、そのことを、本当に実践を通して、彼は当時の日本人に伝えていった、それはすごく大きなことだったと思います。アルメイダが亡くなった後も病院の仕事は「ミゼリコルディアの組」を中心に広まって行きました。特に九州、何よりも長崎でしょうか。一番有名なのは長崎のミゼリコルディアの組です。大きな組織になりました。そこで病院を運営したり、ハンセン病の療養所の運営をずっとしていたんですね。
1612年、キリシタンの歴史の中では本当に残念な事件が起こります。徳川家康は将軍を引退して静岡に居ました。そして静岡の教会でスキャンダルが起きたのです。岡本大八という静岡の教会の有力者がスキャンダラスな事件を起こして、そして、キリシタン大名だった有馬晴信との間でどうにもならない争いを起こしました。それを見た家康は「キリシタンは駄目だ、信用できない」と怒って、自分の側近のキリシタン達に棄教を命じる。そして、長崎がキリスト教の一番の中心でしたから、長崎の町にも禁教令を出しました。
少し脱線しますけど、その時に家康の側近でキリシタンだった人、そして信仰を捨てなかった人で、有名なのは原主水です。彼は姿を消し、後に捕らえられて殉教しました。2008年に列福された188人の中の一人です。もう一人有名なのが、おたあジュリア。彼女は大島へ、そして、神津島へと島流しにされていきました。話は戻りますが、1612年、家康は自分の家来と、長崎に禁教令を出します。長崎の教会は全部破壊されました。でも、長崎でミゼリコルディアの活動はしばらく続きました。何故かというと、誰が見たって良い事をしていたからです。周りの人から、キリシタンでない人から見ても。貧しい人や、病人や、未亡人や孤児を助けることをしているので、黙認されてしばらく活動していました。1614年に全国的な禁教令が出て、どんどんキリシタン迫害が強まるに従って、ミゼルコルディアの組は表だった活動が出来なくなります。そして、本当に目立たない形で活動を続ける。自分達の中でお互いに助け合って、支え合ってという活動を続けて行くことになります。その中で有名な人がミカエル薬屋という人ですね。長崎のミゼルコルディアの「慈悲役」というリーダーだった人です。彼は迫害の時代、ミゼルコルディアのリーダーとして活動していました。そして、最後は捕えられて、やはり西坂の丘で殉教します。彼も2008年に列福されました。
全国的な禁教令が出た1614年。その禁教令は同時にキリシタンのリーダーの追放令でもありました。高山右近はその時に長崎から船に乗ってマニラに行き、そこで死んでしまうわけです。そのようにどんどん迫害が厳しくなって、最終的には、島原や天草のキリシタン達が中心になって、「島原の乱」という、宗教的な面を持った日本史上最大の一揆が起こる訳です。それも徹底的に潰されて、日本ではキリシタン禁制、そして鎖国というものが確立し、ずっと続いて行くようになります。
日本の最後の神父がいなくなって200年以上、この禁教の歴史がずっと続くわけです。その時代ずっとキリシタン達は密かに信仰を守り受け継いで行くことになります。これも本当に奇蹟的なことです。それは、本当に確かなものを受け取った、本当に大切なものを、本物の信仰を受け取ったキリシタン達の姿があって、それを信徒の共同体が皆で支え合って守っていったということです。今日は詳しくは話せませんけども、「ミゼリコルディアの組」はその一つです。それから「聖体の組」というのもありました。それから「聖母の組」というのもありました。フランシスコ会系ではもっと違う名前の組がありました。当時、神父が本当に少なかったのです。神父はたまに回って来て、ゆるしの秘跡を授け、ミサを奉げてくれるだけでした。そういう中で信徒が皆で学び合い、支え合い、皆で教会を作っていった、守っていった。そういう信徒の共同体がありました。その共同体が迫害下、禁教下で信仰を受け継ぐ共同体になって行くんですね。そのこともすごいことだと思います。
来年は長崎の信徒発見150年。明治時代になる頃、キリスト教の宣教師が再び日本に来ました。その時に来たのはパリ外国宣教会のフランス人の神父達でした。昔のキリシタンの時代はスペインやポルトガルという王国の世界進出とキリスト教の布教とかがどこかで結びついていた。そこにさまざまな問題がありました。それを止めるために、国家の力と関係のない宣教の仕方をするということで出来たのがパリ外国宣教会。教皇庁はそのパリ外国宣教会にアジアの布教を任せました。そして19世紀になって日本にも来たのです。
そのパリ外国宣教会の人達は日本に沢山来て、キリシタンの末裔とも出会い、日本の宣教を進めて行くことになります。彼らは本当に純粋に霊魂の救済を考えて日本に来たのです。しかし現実には彼らはただ単にお説教や公教要理をしていただけではなかったのです。その時に出会った貧しい人々を見て、見るに見かねて、いろいろなことをやっています。長崎ではマリー・ド・ロ神父がいろいろな社会事業をしました。関東の方では、テストウィド神父が神山復生病院の基になる、ハンセン病の人を助ける活動を始めました。それから熊本ではコール神父が待労院というハンセン病の人のための施設を作りました。そうやって、本当に見るに見かねて貧しい人や、ハンセン病の人や、結核の人、当時誰も目をむけなかった人達に手を差し伸べていったのです。そのことを通してキリスト教のメッセージが伝わって行ったということを、やはり、私達は大切な歴史として受け継いで行かなければいけないと思います。コール神父の熊本の活動は私達にとって身近な関係もあります。東京の聖母病院のシスター達(マリアの宣教者フランシスコ修道会)はコール神父の活動を助けるためにもともと熊本に来て、そこから各地に活動が広がって行きました。
二十六聖人は日本の殉教者の初穂です。二十六聖人を始めとして多くの殉教者達は信仰を守って、本当に多くのキリシタン達が命を捧げていきました。どうしてもそこの部分に目が行きますけども、その前の50年間、本当にキリスト教の大切なメッセージが日本人に伝わっていたんだということを、だからこそ、キリスト教があれだけ発展したし、だからこそ、どんな迫害や困難の中でも、信仰が守り受け継がれていったということを、そのことを今日お話ししたいと思いました。
最後に聖書の一節を読みます。
パウロのコリントの教会への第一の手紙の一章からです。
『ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起してみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』(コリント一 1章22節−31節)
今日の話のテーマは「キリストを誇りとする信仰」とさせて頂きました。キリシタン時代の私達の先輩のことを思った時に、私の中で思い浮かんだ言葉がこれでした。本当に彼らはキリストを誇りにして、キリスト者、キリシタンであることを本当に誇りにしていた。私達は、本当にそれに見習いたいと思うことです。皆さんはキリストを本当に誇りとしていますか? 本当にキリスト者であることは素晴らしいこと、私達は人間として最も大切なことを大切にして生きているんだと云うこと、本当に一番人間として素晴らしい生き方に招かれているんだと云う、そのことを誇りにする。別に自分達を誇りにするんじゃなくて、キリストを誇りとして、キリストと結ばれていることを誇りにしたいと思います。
カトリック信者が世界に10億人いる、そんなことは誇りでも何でもないのです。あの有名な小説家もカトリック、この有名人もカトリック、そんなことも何の誇りでもないです。こんなに立派は聖堂を持っている、こんな立派な学校を持っている、そんなことも誇りにはなりません。私達が誇りにするのは、キリストです。私達人間の救いの為に人となり、ご自分の全てを与え尽くされた十字架のキリスト。その方が私達の誇りであって、私達がその方と繋がっている、その方の愛に少しでも連なっているんだ、そのことを誇りとして、本当に誇りを持って、歩んで行けたらと思います。この二十六聖人殉教者祭に当たって、そのことを、ご一緒に深く味わうことができたらいいと思いました。
ありがとうございました。 |